社長の全国出張事件簿その7
日本の橋シリーズ
東京・清洲橋 編


   
   隅田川に架かる清洲橋



その年も押し迫った12月中旬、僕は寒風吹き抜ける隅田川の畔で身体を振るわせながらタバコを吸っていた。時計を見ると午前7時になろうとしている。

ようやく回りも明るくなってきて、隅田川の川面も色を変えていく。

もう30分近く立ち尽くしていたのだろうか、身体が芯まで冷えてしまった。

でもおかげて二日酔いの頭はかなりはっきりしてきた。

ホテルに帰って熱いお風呂に入って、それから東京駅まで行くことにしよう。

今日は土曜日慌てて帰ることもない。

僕はコートにだらしなく両手を突っ込んだまま、階段を昇ろうとした。

その時ふと清洲橋を見上げると、向こうからジョギング姿の人が見えた。

ゆっくりとしたスピードながら軽快に、ステップを踏んでいる。

「ああ、やっぱり」

僕は思わず声を出した。

小走りに階段を昇りきったところでその人とちょうどご対面する格好となった。

「お久しぶりです。憶えてますか?」

その白髪のご婦人はびっくりしたように僕を見つめるとようやく思い出してくれたらしく、ああいつかの方と変わらない笑顔を息を整えながら見せてくれた。

「朝起きれるようになったんですね」

「そうなのよ。何とか身体を慣らしてね」

「どうですか?タバコありますよ」

「あはは。だめよタバコは!身体に悪いんだから。ほらわたしはもう止めたんだから」

「へえ、えらいですね。強い意志やな」

「あなた相変わらずいい体格しているんだから、どう運動始めた?」

「それがなかなか。やろうと思う気持ちはあるんですけど」

「あれその様子は朝帰りかな?おぬし」

「おっしゃる通りです。これから大阪に帰ります」

「そう。お仕事大変ね。あっ、そうだ。ちょっと待ってて」

そう言って彼女は小走りに近くの自動販売機に向かい熱いコーヒーを手渡してくれた。

「いつかのタバコのお返し」

「あっ、どうもすみません」

「気をつけて帰んのよ。それじゃあね」

「はい。ありがとうございます。また・・・」

彼女は横断歩道を渡ると再び清洲橋をいつものように渡って帰って行く。

缶コーヒーの温もりが冷えた身体に安心を与えてくれる。

僕は清洲橋に背を向けながら、次の再会を約束した。

大都会はようやく目を覚まそうとしていた。


正確に数えたことはないけれど、どこに一番出張しているかと言えば、やはり東京横浜方面が圧倒的に多いと思う。

1回行けば一週間は滞在することになるから、考えたら1年のうち1ヶ月以上はあっちで暮らしていることになる。

その年の春までは、時刻表で調べた池袋のビジネスホテルを根城にしていたのだが、どうも繁華街の真ん中というのも誘惑が多すぎるので、静かなところを探そうと思った。

またまた時刻表を引っぱり出して調べた。

中央区地下鉄人形町駅から5分くらいのところのホテルに泊まることにした。

行ってみると朝までガヤガヤしている池袋と違って、夜は人通りは少なく理想通りの宿だった。

ある時訪問予定を全部終了し、さて帰って冷たいビールでも飲もかいな、と何気なく地図を開くと、清洲橋という名前が飛び込んで来た。

どっかで聞いたことある名前やな。今いるのが、江東区深川やから、あれ?何やこの橋渡ったら無茶苦茶近いやん。

まあ歩くのは好きやから、ブラブラ行こうか。

と渡ったのが清洲橋との出会いだった。

昭和の初期に造られたというその橋の重みに僕は魅せられ、すっかり気に入ってしまった。

あっ、そうや。ここやここや。たしか「男女7人夏物語」の舞台となった橋!。

大竹しのぶ扮する桃子が、さんま扮する今井良介の部屋に行くのに渡ったのがこの橋だった!

そうか、こんなとこが舞台やったんやな、とすっかり感動してしまった。

続編の「男女7人秋物語」に第何話か忘れたけど「清洲橋」という題まであったことを思い出した。

別れてしまった桃子と良介が隅田川の畔で会っているシーンで、

「俺、あまえがあの橋渡ってくるのを見るの好きやったな」

「あの時アメリカ行くなって言うたらよかったわ」

というセリフが出てくる。僕が好きな場面の第3位である。

(でもあのドラマは実際はまったよな。今でもビデオ借りて見てしまうもんな)

僕も思わず橋から遊歩道まで降りて適当に腰掛けながらタバコを取り出した。

ゆったりとした隅田川の流れを目で追いながら大きく煙を吐き出した。

水上バスが通り過ぎていく。

橋の上は車の列が途切れることなく連なっている。

僕はこの場所がすっかり気にいってしまった。

清洲橋からホテルまでは歩いて7.8分の距離なので、たまに朝早く目覚めた時や、帰り道の酔い冷ましにこの橋を見に行くのが、それからの僕の東京滞在中の楽しみとなってしまった。



清洲橋の夜景


うっとうしかった梅雨がようやく明けた。関東は関西より少し早く梅雨明けしていたと思う。梅雨が明ければ明けたで蒸し暑い季節がやって来る。

少し歩けば汗が吹き出るというその年一番の暑さに身体はすでに水分を欲していた。

仕事が終わり、近くの居酒屋に飛び込み生ビールを3杯飲み干すと汗はすでに乾いていた。ふう〜と一息つくと、とっとと店を出た。

清洲橋まで行き夕涼みしようといつものように階段を降りた。

川辺は昼間の暑さが嘘のように涼しい生き返るような風が吹き抜けていく。

タバコを口にくわえて火をつけた。

「お兄さん、タバコはあんまり身体にいいことないんだよ」

「えっ?」

いきなり背中で声がしたので、僕は思わずぎょっとなった。

見事な白髪のご婦人が上下ジャージ姿で立っていた。

口にはくわえタバコ、年は60は過ぎているようだ。

「だけどわかっちゃいるけどやめられないんだよね。お兄さん、悪いけど火貸してくれない?」

「あっ、どうぞ」

僕がライターを渡すと、ありがとうと短く言ってさっと火を付けた。

ふう〜と僕よりも大胆に煙を高く吐き出した。

結構上品そうな顔立ちなんだけど、やってることは大阪のおばちゃんと変わらない。

でもなぜか粋なんだよな。江戸っ子かなやっぱり?

「仕事帰り?」

おばさん(東京だからおばちゃんではなくおばさんと呼ぶことにした)は僕の横にどっしりと腰を降ろした。逆ナンパやないやろな。

「ええ。今週いっぱい出張中なんですよ」

「本当?あっ、関西でしょ。発音でわかるわよ」

「わかります?大阪なんですけど」

「へえ、大阪かあ。万博の時に行って以来行ってないなあ」

「そうなんですか。ということは、僕が5歳の時ですね」

「あれまあ、そんなに昔のことだっけ。年とるはずだよねえ」

「いえいえお若く見えますよ」

「関西の人は口がうまいからね。兄さんもまじめそうな顔してお姉さん泣かしてるんじゃないの」

「いえ、泣かされています」

「怪しいもんだね。あっ、兄さんタバコ一本いい?」

「どうぞ、どうぞ。結構ヘビースモーカーですね。健康のためにジョギングなさってるのに」

「はははは、そうなのよ。友達に勧められちゃってさあ、ジョギングは身体にいいからって。本当は朝の方が気持ちいいよって言われたんだけど、あたしだめなのよ。朝は。誰だろうね。年寄りになったら朝は早くなるって言い出したのは。全然ダメ、血圧低いからね。タバコも止めようとは思うんだけど、40年以上も喫ってきたもんだから、急にはね。ジョギングしながらでも欲しくなっちゃうのよ」

「別に無理に止めなくてもいいと思いますよ。うちのおじいちゃんなんかタバコは吸うし、酒は飲むはで90まで生きましたから」

「それは素晴らしい事ね。あたしも見習わなきゃ。兄さん今何時ごろかしら?」

「えーと、もう7時ですね」

「あらやだ。どうもお邪魔しちゃって。タバコありがとうね」

「どういたしまして」

「それじゃ、」

おばさんは振り返ると階段をタタタと軽快に昇ると、規則正しいステップで清洲橋を渡っていった。

うーん、東京のおばさんもおそるべしだ。

ホテル暮らしが続いて僕もちょっぴり人恋しくなったのかもしれない。

とても懐かしい感じがした。

それから2度僕はそのおばさんと短いデートを楽しんだ。

やっぱり夕方だった。

話しを聞くと、清洲橋のすぐ近所のマンションに一人暮らししているそうだ。

ご主人はこの深川で長年寿司屋を経営していたそうだが、引退して3年前にぽっくりと逝ってしまい、一人娘は何とアメリカ人に嫁いでしまったらしい。

「全く、ずっと向こうで暮らしているからいやんなっちゃうわよ。たまに孫が帰ってきても英語だもん。可愛くないったらありゃしない」

そう愚痴ってた。

さすがチャキチャキの江戸っ子らしく歯切れが良く、テンポがとても気持ちよい。

とてもよい会話の勉強させてもらいました。

「ごめんね、タバコある?」

最後に申し訳なさそうに言った言葉が隅田川の風にすぐに消されてしまった。

その後僕は清洲橋に行く機会がなく、ホテルも横浜などを転々としていたためようやく訪れたのがすでに12月に入っていたわけだ。

月曜日にやって来て、2回ほど清洲橋をのぞいたが会えなかった。

土曜日に思いがけず再会できたというわけである。

朝帰りでもなけりゃ冬は起きられへんもんなあ。


実はそれがおばさんとの最後になった。

今も時々朝方二日酔いを醒ますのに清洲橋に出向くのであるが、一向に姿が見えない。

元気でいればいいのに。

僕の思いは、清洲橋を流れる車の列にかき消されているのだろうか。