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旭川斉藤牧場



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斉藤牧場 旭川
 斎藤晶さんとその一家は戦後開拓に始まり、約半世紀に亘ってこの土地の自然と風土を基本にした山地酪農の技法と哲学を実践してきた。斎藤晶氏の自然に対する深い洞察力をもって、自然の営みと牛の特性を引き出して、時間をかけて、農耕不適地と思われた笹薮の石山を七割は草地に変え、三割は林地に残して絶妙のバランスを保った山地牧場を創造した。現在斎藤牧場は見事に自然と共生し四季折々変化に富む景観を活かしているから人々に自然への憧憬と回帰を呼び起こさせる、他に類を見ない牧場公園として評価を高めている。
活動状況
 斎藤晶さんは戦後山形県からこの地に開拓団の一員として単身入植したが、農耕不適地と思われた笹薮の石山に挑み、再三挫折の体験を味わいながら体得した自然観と独自の哲学を基に手探りで独特の山地酪農を始めた。この自然特性の中で自然の活かし方、自然との共生の仕方を考案して困難な社会経済環境にめげず今日見る山地酪農経営を確立してきた。彼を支えて、四人の子どもを育てた妻富子さんと六人の家族がその事業協力者であった。長男は終始誠実な協力者であり、次男、三男も家業を手伝った。長女は隣接する美瑛町の酪農家に嫁ぎ、実家に協力している。斎藤さんとその家族が今日の斎藤牧場を形作ってきた。  斎藤牧場は標高差が150メートルもあり、かなりの急斜面が多い。比較的平坦な部分は採草地として利用し、斜面を放牧地として利用している。放牧は春四月半ばに始まり、降雪が始まる十一月半ばまでの7ヶ月で、十一月半ばから四月半ばまでの5ヶ月は牛舎での飼育となる。放牧中は草地で草が主体、冬は、夏に生産した乾草、サイレージ等によって飼育される。
 「牛が拓く牧場」といわれるように、笹薮と石山を緑豊かな草地に変えるのは、斎藤さんが笹を刈り、火入れをして、その後に牧草の種を蒔いて、牛を入れるという方式で牛の特性を引き出し、蹄耕法によって見事な草地に転換していった。  それだけではない。斎藤さんは山の木々を良く見極めて、三割は樹を残して、後を草地に変えた。牛には水と日陰が必要であり、山の樹によって水は保たれる。樹は放牧牛に必要な水を供給し、また、こよない休み場を提供している。毎日、山地の草を食んで運動している斎藤牧場の牛は舎飼いの牛と違って足腰が丈夫で短い。健康な牛はお産にも強く、殆どが安産で、獣医師のお世話になることは極めて稀である。搾乳は八分目としていることもあって、1頭当たりの平均乳量は他に比較して少ないが、搾乳期間は長く12年に及ぶ。種付けは全て、自然交配で種牛は2年で交替させて、この山地に適合した牛群が出来上がっている。一般の牧場のような除草剤や農薬を一切使用しないから汚染されない優れた自然環境が保全されている。このような草地に牛をうまく放牧しているので牧草の密度が一般牧場の2倍近くあり、通常10年毎に必要とされる草地更新(牧草の植え替え)をこれまで一度もしたことがない。
現在、農地面積 130ha  飼育数 搾乳牛70頭、種牛、初妊牛、育成牛等60頭 合計130頭。
搾乳量 300〜350t/年。
活動の発端、経過、今後の展開
 戦後開拓の厳しい時代が終わりを告げる頃になると北海道農業は新たな試練を迎えていく。北海道酪農はアメリカ酪農経営を模範として、草地酪農より濃厚飼料による舎飼いが奨励されて、大規模化が進んでいった。こうした農政の指導と異なる斎藤牧場の経営は長く異端視されてきた。しかし、1965年草地造成指導に来日されたニュージーランドのロックハート博士は斎藤牧場の草地を「これは素晴らしい方法だ、このままで将来は心配がない」と高く評価された。  この牧場の生態系は実に豊かで、四季折々の美しい景観を演出している。春は桜やこぶしが咲き、こごみ、やま蕗、やまうど、行者大蒜など山菜の宝庫である。夏には下を流れる川に蛍が飛び交い、山は木々の濃い緑と草地はゴルフ場に見まがうような緑で覆われる。秋は美しい紅葉の季節であり、きのこや山葡萄、コクア、胡桃等自然の恵みを求めてここを訪れる市民が多い。斎藤さんは自然を私物化すべきでないとして、牧場を市民に開放しており、身近な自然との交流の場として親しまれている。  1983年この優れた景観と環境に惹かれた市民が牧場の一角にログハウスを建てて、この自然との交流を始めたが、その後山小屋を建てる人々が相次ぎ現在までにログハウス等が8棟の他、農水省研修施設や教会までも造られている。幼稚園児や小学生等が利用する野外遠足も年中行事となっている。斎藤さんは訪れる人々に自然の偉大さを説き、斎藤哲学を披露する。春と秋には市民も参加しての「牧場祭り」が行われ、バーベキューとおいしい空気と自然を満喫する慣わしが定着してきた。
 斉藤牧場の自然環境と景観は年々美しさを増し、生態系は豊かとなっている。国有林野を始め荒廃が広がる林野の保全は緊急の課題である。わが国土は山地が70%余を占め、その自然環境を保全し、且つその有効活用する方策が望まれるが、斉藤式山地酪農の普及で安定した食糧需給の道を開く一助にすることが期待される。その為には斉藤さんの経営理念と経営技術を受け継ぎ発展させる必要がある。研修施設がつくられたが、昨年で事業は終了となった。これを更に継続し、そこで育った研修生が入植する山地と適合した牛群をつくり、山地酪農を拡げる活動に対する資金の助成等支援が課題となっている。
 牧場が単に素材としての牛乳生産に止まらず、地域の果樹、園芸、蔬菜生産農家との連携を通じて都市市民のニーズに応え、更に地域のレストランやホテル業とも連携して、付加価値の高い生産加工と製品の流通ルートを開くことが望まれる。斉藤牧場を地域活性化の拠点にすることで二十一世紀北海道農業の一つの典型を作り出す計画の策定と推進が望まれる。
その他
 山地酪農協会は斎藤牧場の牧場経営を高く評価、1996年に農水省の補助金を導入して牧場内に山地酪農経営人材養成の為の研修施設を建設し、斎藤さんを指導者として、研修生がここで実習しつつ、斎藤さんから山地酪農経営の真髄とそのノウハウを学んでいる。  斎藤牧場では農薬等を使用せず、その隣接地は国有林で汚染されることなく、自然環境が保全されているため1997年環境医学会が旭川で開催された折に地元との交流パーティーが牧場内で開かれ、澄み切った空気の優れた自然環境が注目された。現在身近な生活環境に様々な有害化学物質が氾濫しており、建材、塗料などによる被害が化学物質過敏症やシックハウス症候群等として大きな社会問題となっている。1999年、重症の化学物質過敏症患者数名が斎藤牧場を訪れて、ここでの滞在生活によって症状の好転が見られた。こうしたことに端を発して、旭川市が中心になって進める医療休養基地のモデルとして化学物質過敏症患者の滞在実験施設が建設された。  山地牧場研究報告の貴重な題材として北海道大学、国立北海道農業試験場はじめ国内外の大学・試験研究機関の研究者が斎藤牧場に注目し、今も継続して訪れる研究対象とされている。(添付資料2参照)  これまで、新聞やテレビなどでしばしば紹介されてきた。一例として朝日新聞では2001年1月5日「安らぎ牧場-ヒトも放牧 心に栄養-」1996年8月16日「山と共に生きる-ある酪農家の戦後-」、北海道新聞では1998年4月12日「注目あつめる゛山地酪農゛旭川の斎藤牧場-自然の力生かし低コスト実現-」、毎日新聞では1997年1月1日「牛がつくる牧場-自然に任せ共に生きる-」、日本農業新聞では95年12月21日「景観を提供 山の牧場は憩いの場−別荘など建て市民に開放−」等がある。
また、漫画雑誌「週刊モーニング」が斎藤牧場をモデルとした菅原雅雪作「牛のおっぱい」が1994年から1996年に連載され、好評を博した。
2001年7月斎藤牧場を訪れた自由時間評論家の津端修一元広島大学教授は自身がかってスイスのインターラーケンから贈られた「カウ・ベル」は正に斎藤牧場とその牛さんこそが相応しいとして、斎藤さんとその牛さんへその「カウ・ベル」を勲章として贈呈された。(添付資料2参照)  受賞歴として1974年8月に北海道知事から北海道産業貢献賞、1976年3月に農林大臣から農林大臣表彰、1999年7月には山崎農業研究所からの第24回山崎記念農業賞等がある。