要真理子

(大阪大学コミュニケーションデザインセンター特任講師)

an interview

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−要さんは、人文・社会科学振興プロジェクト研究事業の第5領域横断フォーラム<ミュージアム>(2016年)において「美術館展示にワークショップ性を取り入れることで生じる危険性」について触れられています。その危険性とはどのようなものなのでしょうか。

現代の芸術作品をめぐるコミュニケーションにおいては、作品そのものよりも、それが置かれるコンテクストや鑑賞者の芸術体験が重視されるようになっています。ご存知のように、美術館では、ここ最近はとくに、鑑賞者が能動的に作品と親しむことができるようさまざまな工夫が凝らされていますよね。整然と並べられているだけでは、通り過ぎてしまうような作品でも、配置が工夫されていると「なんだろう?」と足をとめてじっくりと見てしまうこともあるでしょう?「作品が置かれるコンテクスト」というのはこうした展示のコンテクストを指しています。少し以前までは作品を見るとき、その作品が制作された状況、時代、地域、社会、文化といった元々の背景(コンテクスト)ができるだけわかりやすいようにとキャプションや解説パネルなどに工夫が凝らされていました。最近では元々の背景から離れて、企画の面白さやユニークな作品配置など、美術館は展示における作品の再コンテクスト化を重視しているように思います。実際、鑑賞者(=来館者)に展覧会の企図自体を理解してもらえないかもしれないけれど、「面白いな!」と思わせてしまうような工夫。ただし、この工夫は同時に展覧会に仕組まれた「しかけ」であって、鑑賞の方向性を限定してしまうことにもなりかねないのです。


−このような、展示にワークショップ性を取り入れることになった契機として、アメリア・アレナスの試みを挙げていらっしゃいますが、彼女の試みは作品鑑賞にどのような影響をもたらしたのでしょうか?


アメリア・アレナスは、1984年から96年までニューヨーク近代美術館で美術館教育プログラムの専門スタッフとして活動していました。そのとき、彼女が中心となって開発したのが、「対話型鑑賞法」と呼ばれるものでした。

複数の人々が鑑賞の場に居合わせるとしても、対話に基づくこうした鑑賞は、一方的なメッセージを伝えるだけの従来の「解説型」ギャラリートークとは区別されます。ここで、アレナスが考える一方的なメッセージというのは、政治的プロパガンダでも商業広告でもなく、美学や美術史の知識といった文化的歴史的なコードおよび理論を指しています。つまり、さきほど話題にした作品の背景(コンテクスト)といったものですよね。彼女の考えのもとでは、鑑賞目的の制作ワークショップも否定されます。なにより参加者が捉えた内容を言語によって他者に伝えることや、その内容を通じて意見を交わし合うこと(言語によるコミュニケーション)が重視されているのです。そこでは、美術館スタッフは「解説者」ではなく、ファシリテータと呼ばれる「進行役」に過ぎません。そのため、一見するとこの対話型鑑賞法においては、中立的なファシリテータのもとで、参加者が「能動的に」作品を鑑賞しているように感じられますし、対話を通して互いの感情を分かち合い、あるいは差異を知ることで新しい見方を協働して作り上げているようにも思えます。しかしながら一見すると「能動的」に感じられる作品への関わりも、実際にはファシリテータや他の参加者によって導かれていることも少なくありません。というのも参加者の感じたこと、思ったことは言語を 通して表現されるのですが、そのとき発せられた言葉が参加者自身の本当の感受性に由来するものであるという確証はどこにもないからです。ファシリテータもまた、鑑賞を方向付ける「しかけ」の役割を担っているとは言えないで しょうか。この「しかけ」によって特定の文脈が導入されるということが、ワークショップ性がはらんでいる危険性だと思います。アレナスの鑑賞法においては、「参加者が捉えた内容を言語によって他者に伝えることや、その内容を通じて意見を交わし合うこと」が重要なので、必ずしも色や形が織り成す彩といった作品の造形的局面が感受される必要はありません。色や形を見ていてもそこから、自然の雄大さを連想したり、小さい頃の出来事を追想したり、作品から離れたところで意見交換が行われることもあるわけで、とりたてて作品それ自体の構成に注目する必要はないのです。ただし、完成された美的な質(=芸術作品)を見ないというのであれば、見る対象が芸術作品であるという必然性はなくなってしまうでしょうけど。


−ワークショップを行う際、見るべき対象が芸術作品でなくてもいいという危険性についてお話ししていただきましたが、そのことについて詳しくお聞かせ下さい。

芸術作品をある種の契機として他者理解のために役立てたり、意見交換や議論をすることについては全く問題ないですし、むしろよい傾向だと受け止めています。このようにコミュニケーションをすることが目的で、そのための作品を吟味して扱うのであれば異論はないのですが、作品を鑑 賞することを謳い文句にワークショップを行う場合、「作品を見ない」ということに対して疑問を感じます。作品鑑賞をワークショップの目的とするのであれば、まず作品の特性に目を向けてほしいですね。

−人文・社会科学振興プロジェクト研究事業の第5領域横断フォーラム<ミュージアム>でのご発表から1年ほど経っていますが、ミュージアムばかりでなくさまざまな教育の現場におけるワークショップの導入に関して現在はどのようにお考えでしょうか。

教育の現場にワークショップを導入することには基本的に賛成ですが、授業内容によると思います。専門科目によっては講義形式の方がよい場合もあるでしょうし、ワークショップ自体、万能ではありませんから。私が所属しているCSCD(大阪大学コミュニケーションデザインセンター)では、現在17科目20種類の授業を大学院全研究科に向けて開講しているのですが、こうした授業の多くがワークショップを柱としています。従来の講義形式では、教師の側から学生へ一方的にメッセージ(知識)を伝えることが主眼とされ、そうすると、どうしても学生が受身になってしまいがちでした。知識の修得だけではなく、否むしろ修得した知識をどのように活用するか、どのように考えるか、といったことの方が重要ではないのかという反省から、CSCDでは、「考えること」を中心にした教育プログラムと、 「考えてもらうための場」が検討されました。その「場」を形成する条件の一つとして提案されたのが「ワークショップ」という手法でした。そこでは教師と学生の双方向の関係を築き上げるのみならず、複数の他者との交流、なによりも学生の主体的な参加が目指されています。従来の授業では、ゼミ以外、学生一人一人が考えたことを積極的に発言し合う機会はそれほどなかったように思います。CSCDのワークショップを取り入れた授業について、具体的な例を2、3ご紹介すると、「科学技術コミュニケーションの理論と実践」では、文系と理工系の大学院生の混成による5日間の集中的な討議演習を行っています。現在、BSEや放射性廃棄物の処分などをはじめ、科学技術をめぐって社会の中で生じている種々の問題は、その科学技術に関する専門知識を有する人ばかりでなく、その科学技術によって影響を受ける社会に住む全ての人にとって無関係ではあ りません。演習では社会の中で現実に論争の起きている科学技術に関するテーマを扱い、専門家ではない人々のニーズに対応できるコミュニケーション能力の育成を目指しています。また、少し聞き慣れない名称ですが、「減災コミュニケーション入門」という大変珍しい授業もあります。
この授業では災害前後の被害を軽減するための活動、たとえば復興支援や心のケアなどが扱われます。災害時における複数の人々のコミュニケーションの重要性、これも現在平穏無事に暮らしている私たちには想像しがたいのですが学生にはロールプレイなどを通して災害の場面を疑似体験してもらっているようです。今ご紹介した二つの授業はある目的があってそのためのコミュニケーション能力を身につけることが主眼とされていました。これらに対して、コミュニケーションそのものを課題とした授業もあります。

 「コミュニケーションとは何か」ということを「コミュニケーション」の実践を通じて体得していく授業です。この場合のコミュニケーションは、必ずしも合意形成を目的とはしていません。むしろ意見の相違を実感し、異なる意見を有する他者を認めることを重視しています。

−要さんが所属してらっしゃるアート&テクノロジー・コミュニケーションデザイン部門では、ワークショップをどのように捉えてらっしゃいますか。

「ワークショップ」への取り組みに関して、教育プログラムの例を挙げてみましょう。たとえば「アート・プロジェクト入門」という授業では3日間の集中講義の後、受講生がグループに分かれて実習に参加します。5つの実習のうち二つはワークショップの名称が付けられています。複数の人間が一つの「プロジェクト」を進める過程で、合意形成を目的とするワークショップという手法は非常に有益であると思います。特に「アート・イベント企画ワークショップ」という実習では、「プロジェクト」の側面が強調されていますので、企画の面白さはもちろんのこと、共同作業のプロセスが重要とされています。これに対して、もう一つの「アウトサイダー・アート(正規の美術教育を受けていない人が制作する美術)・ワークショップ」は、アーティストと作品、そして制作をサポートする人々や仕事内容について、実際に現場に立会った上で、深く考える実習です。見学を通して受講生同士意見を交わす場面もたびたびあるのですが、最終的には「アート」をめぐる諸問題について各人で考えることが重要です。一つめの実習は「プロジェクトのためのアート」が要諦とされ、ここでは「アート」は「手段」としてみなされていました。その一方、二つめの実習では「アートのためのプロジェクト」という具合に、「アート」が「目的」として中心に考えられています。いずれの考え方も間違いではありませんが、一つ目の「手段」としての「アート」という考え方には、良くも悪くも現代の風潮が現れているように見えます。

−「アート・プロジェクト」に関して、もう少し具体的にご説明ください。

目的はさまざまであれ、教育の現場でも、社会においてもアートに対する関心は非常に高まっていると思います。とりわけ、「参加型アート」と呼ばれる専門家ではない人々が数多く参加するアートの形態には、そういった社会的関心が反映されています。昨今では「参加型アート」といっても、美術館や画廊に設置された作品に人々が後から参加するというだけでなく、企画や制作段階から参加するといったプロジェクト型のアートが注目されています。プロジェクト型アートは、教育や福祉の領域で実践されることもあれば、民間企業と連携事業を実施することで地域社会の振興に役立てられたりすることもあります。地域社会と企業、そして大学や美術館などの機関が共同でプロジェクトを推進するだけでなく、そこに市民も参加している。こうした現象は、都市部以外で多く見られる傾向にあります。

もちろん、アートによって町が活性化されるのは大変喜ばしいことですが、正直なところ、私はアートと地域振興が結びつくことに対して少しばかり慎重な立場を取っています。最初に申し上げたように、そこには「アート」に対する問題意識が希薄であるように感じられるからです。「アート」とは名ばかりで、全く無関係なプロジェクト事業も ありますから。ところでこの「アート・プロジェクト」という言葉ですが、この言葉がいつどこで使われだしたか、誰が言い出したのか、はっきりとは分かりません。授業を行うにあたって調べてみたところ、いくつかの起源があるようでした。一つには作家自身が自らの制作行為に対して「アート・プロジェクト」と称したということでしょう。アート・プロジェクトは、1人の作家が制作過程の一切を請け負うのではなく、基本的に共同作業です。1960年代から試みられているクリストのアート・プロジェクトは有名です。建物や町並みなどを布で覆ってしまったり、大きな傘を設置したりと、地域住民や官公庁の許可や協力が必要なものでした。クリストの試み以外にも1971年にジュディ・シカゴとミリアム・シャピロが学生と共同で行った「ウーマンハウス・プロジェクト」などがあります。
このプロジェクトでは、ある廃屋を改築して、文字通り女性たちのメッセージを伝える場をしつらえました。そこでは、アメリカの中流家庭の女性たちが家庭の中に縛り付けられ、家事労働を押しつけられてきた長い歴史に対する憤りや悲しみがインスタレーションやパフォーマンスで表現されました。「いたわりのキッチン」という部屋には、ピンク色の塗装がされ、天井や壁にいくつもの目玉焼きがデコレーションされました。その目玉焼きは、目玉の部分が垂れ下がっているのですが、労働によって時間的に変貌した女性の乳房を表現しているのです。言い換えれば、この目玉焼きは労働によって疲弊した女性の時間的メタファーというわけですね。けれどもこのプロジェクトでは、憤りや悲しみという後ろ向きのメッセージよりもむしろ、ここから私たちは新しい出発をしようという前向きな態度や意志を強く感じます。1960年代、70年代には文化的、社会的メッセージがこめられたアートが多数発表されました。このように作家自らがプロジェクトと称して、他の人々を巻き込んで制作が行われることが、この時期以降増えていったように思います。歴史をさかのぼれば、すでに1912年にアンドレ・マールを中心とした「メゾン・キュビスト」という共同作業によるインスタレーションが制作されていましたが、このときは「プロジェクト」とは言わ れていませんでしたね。非専門家も参加していなかったし。

−そのほかの「アート・プロジェクト」の経緯についてはいかがでしょう?

アート・コーディネータやアート・プロデューサーという肩書きを耳にするようになりましたが、そういった人たちが随分活躍するようになりましたね。このことは1990年代のメセナ活動の展開と決して無関係ではありません。

アーティストが企画した活動に直接市民が参加する形態ではなくて、コーディネータやプロデューサーといわれる人たちが間に入ってプロジェクトを企画し運営する。現在ではこの種のアート・プロジェクトが主流ではないでしょうか。プロジェクト型アートのおかげで、美術館展示にも変化が生じました。完成した作品を扱うのではなく、進行形のプロジェクトの場合、「プロセス(制作課程)」を見せることになるでしょうから、制作風景を撮影したビデオや模型などのコーナーも併設されるでしょう。「アート・プロジェクト」は、最初に紹介したシカゴとシャピロの「ウーマンハウス」のように、屋内でインスタレーションやパフォーマンスによって表現するものと、クリストのように屋外で実施するものとあるようですが、現在の日本では金沢21世紀美術館の「明後日朝顔プロジェクト」に代表されるような屋外のプロジェクトが圧倒的に多いように思います。

−アートの様相の変化について触れられていましたが、それに関連して次の質問に移りたいと思います。大戦以降、戦争、政治、産業、フェミニズム、エイズ、ジェンダー等現代アートを批評する上で重要な要素として語られることが多いのですが、これらのテーマとアートとの関わりについて最も関心のある内容とご意見がございましたら、お話をお聞かせ下さい。

そうですね。それでは、フェミニズムと政治についてお話しましょうか。実は、一頃前までは、フェミニズム理論は非常に可能性があるのではないかと思っていました。フェミニズム理論というのは、簡単に言ってしまえば伝統に培われた既存のカテゴリーや固定的な視点を打破して新しいパースペクティヴを切り開こうとするものであって、なんだかとても魅力的に思えたのですね。フェミニズム美術史というのは、男性アーティストや男性の鑑賞者を中心に形成されてきた美術の世界を女性の視点から読み直そうというものでした。描かれている女性はどういう立場だったのか、この女性は男性が望むようなポーズで立っているのではないか、などという問題点が次々と提示されました。しかし、1960〜70年代に優勢だったフェミニズム理論は、声高に弱者の権利を主張する立場からマイノリティ全 てを扱う他者論へと移行するなかで、1980年代にはトーンダウンしていきました。それというのも弱者や周縁が強者や中心に置き換わったとしても、その構造自体が変わらなければ解決にはならないと誰もが気づき始めたからです。けれども二項対立を乗り越えるようなパースペクティヴなんて本当に存在するのでしょうか?「ジェンダー(文化・社会的性)」という概念も「セクシャリティ(個人的性)」と対置させてしまえば、ニュートラルではなくなってしまう。結局はフェミニズム理論もジェンダー論も「何でもアリ」の、ある種相対主義的な視点を打ち出して終わってしまうのでしょうか。現在ではカルチュラル・スタディズ等文化理論のうちの一領域に収まっていて一時期の勢いは感じられません。さて次に政治とアートの関わりにつ いてですが、20世紀後半には「ポリティカル・アート」と呼ばれる活動が展開されました。フェミニズム美術の動向と似ていますが、やはり中心的な権力に対する批判が原動力となっています。代表的な例としてはハンス・ハーケの作品が上げられます。たとえば《Taking Stock(Unfinished)》(1984年)で明示されているのは、SaatchiSaatchiというロンドンの広告会社に対する痛烈な批判です。イギリスのサッチャー元首相の肖像画の背景にこの広告会社の創業者2人の顔が描かれています。この会社はサッチャーの選挙キャンペーンを手がけたこともあるので、その関連が示されています。そればかりでなく、アパルトヘイト強化政策をプロモートしたりしていましたし、その一方で、現代アートの大規模なコレクションをもっていました。大企業にはよくあるように、投資対象として美術作品を扱っていたのですね。高額な美術品は減価償却の対象外ですから、年数が経っても価値は変わらない。この絵の中には、どうやらSaatchiSaatchiに対する二つの批判が読み取れそうです。一つはアパルトヘイト支援への批判。もう一つはアート・マーケットを不正に操作しているという疑惑。ハーケの作品の社会的影響力は大きくて、SaatchiSaatchiの重役は、展覧会の開始直後、複数の美術館関連組織の委員を辞職しました。かなり辛辣な批判をハーケは言葉ではなく、作品を通じて行ったのですね。

−ハーケが政治的背景を批判対象として作品に込めたこと、またその後の社会的影響は非常に興味深いことですね。さて、時代によってメディア(表現媒体)の様相も変化しているように思いますが、昨今のアートとメディアに関してはどのように捉えていますか?

画家といえば、絵を描くことを生業としていると考えられますが、近年、1人のアーティストが一つのメディアに固執せず、さまざまなメディアを用いて表現することが多くなりましたね。時には既製品や他の作家のイメージを借用し、これらを組み合わせて制作することもあります。それをするのが良いか悪いかという以前に、芸術作品がどのようにして構成されているのかという事実を見据えなければなりません。新しい傾向のアートが登場すると、これに対して様々な意見が生じます。従来の見方を基準にすれば、 新しい傾向のアートが射程外にはじかれて批評できないこともあるので、新しいアートを見るための新たな視点を構築しなければならない場合もあるでしょう。現代ではアートの傾向が多方面にわたっているので、視点の標準を設定するのが困難です。それこそ、視点の相対化ということが肯定されています。もちろん、鑑賞者によってアートの解釈が違って当然なのかも知れませんが、それだけでは作家のメッセージが理解されなかったり、作品が大事にされなくなったりするかもしれません。アートの価値が「感性的な質」とは別の基準によって判断されれば、アートは受け手にとってただ消費されるだけのものになってしまうかもしれません。この「感性的な質」というのが、本来「メディア」の特性でもあったはずなのですが。

−アート自体が内包している問題に、どのようにアプローチしていくかが今後の課題になりそうですね。ところで、普段アートと接する機会のない方との架け橋として、ミュージアムデザイン研究会を開き、司会をされているとお聞きしました。研究会の趣旨と、その中で興味深かったことや考えさせられたテーマなどがございましたら、お聞かせください。

ミュージアムデザイン研究会では、主として研究者や学芸員の方々にお話をしていただき、その都度ミュージアムとその周辺の問題について参加者とディスカッションしています。何度か画廊経営者や企業メセナ担当者など、ミュージアム関係者とは異なる立場の方にお話していただいたこ ともありました。いずれの場合でも、研究会では前半はゲストのトーク、そして後半はゲストのトークのなかから参加者それぞれが感じたこと考えたことについて発言してもらい、ディスカッションしています。第1回から第13回までのトークの内容を振り返ると、独立行政法人化を契機として各ミュージアムの運営方針が大きく変わったこと、都市部の美術館と地方美術館では問題の所在が異なることなどを実感させられました。財政が逼迫していれば大がかりな企画展は出来ませんから、できるだけ経費のかからない企画を考えなければなりません。ここ20年ほどの状況を見てみると、新しいテーマのもとに所蔵品を再配置した展示が目立っています。着眼点の斬新さ、企画の面白さが来館者数にも反映されることもあるようです。そこで、このインタヴューの冒頭の問題に戻ることになります。「展 示における作品の再コンテクスト化」の是非について。言い換えれば、来館者に面白いなと思ってもらうための展示の工夫(しかけ)(ワークショップ性)が孕んでいる危険性について。作品がアトリエからギャラリーへと移し替えられたときに、コンテクストはもうすでに原初のままではありえないわけですから、コンテクスト云々にこだわるのも不自然かもしれません。いずれにせよ、重要なのは「しかけ」を「しかけ」と見極めたうえで、見る側の鑑賞者が自らの感受性を十全に働かせて作品の感性的質を享受して いるかどうかでしょう。研究会では、この問題に対して何人かの学芸員の方が実際になさっている対処法を紹介してくださいました。コンテクストに振り回されることなく作品そのものを鑑賞するために準備体操としての美術ワークショップを行い、感覚と思考を結びつけようと試みたり、意図的にコンテクストを作り上げるのではなく作品と作品との関係からおのずと生じてくるコンテクストを扱おうとしたり、現場ではさまざまな努力がなされています。そのほか運営に関しては、みなさんご苦労なさっていることが 窺えます。集客のために展覧会の内容で勝負するのか、興味深い関連ワークショップで話題づくりをするのか、HPや広告など広報に力を入れるのかなど目指すところはさまざまです。このように芸術活動に携わっている方々のお話というのは、臨場感があって毎回非常に刺激的です。専門 分野や所属機関によって抱えている問題がずいぶん違うなぁ、と実感しています。

−ミュージアムデザイン研究会で、要さんが司会者として心がけていることをお教え下さい。

議論の流れがスムーズになるように努めています。極力介入せずに、しかしながら、専門用語や特殊な状況については説明を補足することもあります。また、参加者の間で一つの意見が優勢になると、その意見にひきずられて、それ以外の意見が不活発になったり、テーマに関して詳しくな いから意見を言いにくかったりという場の雰囲気を変えていきたいと思います。非常に初歩的ですが、まずはアートに関心をもってもらうこと、そして知らないことを気軽に質問できる、合っているとか間違っているとか気にしないで意見が言える、そんな場を作っていきたいと思います。

(聞き手:Oギャラリーeyes)

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