本江邦夫(多摩美術大学教授)
an interview

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−「現在美術を取り巻く状況が多元化している」とよく言われますが、本江さんの「批評とは、『こうあるべき』を 打ち出すものだ」という内容のインタビューを拝見させていただいたことがございます。今、美術批評はどうあるべきだとお考えでしょうか。また、批評する際になくてはならないもの、考えなどがございましたら、合わせてお教え下さい。

いきなり難しい質問ですね。もともと、批評とは、criticという言葉の原義ともいうべきギリシア語のkrineinが表すように、厳密に区分けする、決定するという意味からきています。つまり、物事の良し悪しをはっきりと判断して分けていく、というのが基本的な意味です。
だからというのではありませんが、私は自分の立場を明確に打ち出す、という考えの下、目下の状況に対して迎合や妥協をしたり

流行を追いかけることは致しません。また私は、日本人として何十年も生きていますので、日本的な感性や美意識、伝統などが自然と身に付いています。その中にある普遍的な要素あまりにローカルなものを切り捨てた後に残っているもの、と定義しますをどうやって見出すか、という問に応えてくれるのが、アーティストや芸術作品との真摯な接触だと考えています。私は、それらを通して、あたかも鏡でも覗き込むように自分自身の客観的なイメージを見ることが出来るのです。これが、私にとって批評することの大きな意味ではないかと考えています。
結果、批評したアーティストの知名度が高くなることもありますが、基本的には「普遍性」の理念のもとになされる私自身の為の批評という方針を立てて批評しています。

私自身の為の批評について詳しくお教え下さい。

要するに、自身を投影すべき対象として、芸術作品が存在する、と考えているのです。

芸術作品と向かい合い、対話が始まる、その掛け合いの中で、まさに弁証法の中で、といいましょうか、自分と作品との関係性を極めていくことが批評なのです。例えば、私たちが道を歩く時、一歩ずつ大地を踏みしめていくように、批評は肉体的な接触や、抵抗感があって、初めて現実がわかるという側面を有して います。認識一般の第一段階である、世界との接触をふまえてこそ、全体的な把握などの分析という第二段階に移行 できるのです。言い換えますと、自分の命というか存在と直接かかわることについて、最大限の知恵を使って選り分けるのが批評の第一歩なのです。

自分の存在あるいはある種の身体性を通して作品の良し悪しを吟味しこれはまさにカント的な言い方になりますが、そこで良いと判断されたものが、他人にとっても良いであろうという考えから、「こんな面白いアーティストがいるよ、見てごらん」という考えが生まれるのです。

−それでは次の質問ですが、現代アートを楽しむ、現代アートと接触する機会を増やすためにはどのような要素が必要だとお考えでしょうか。一つの意見として、「現代アートを鑑賞するには、黙って作品を見るだけではなく、自らが参加する要素が必要だ」と美学の岡林洋氏よりお話を伺ったことがあります。これに対するご意見も合わせてお聞かせ下さい。

全ての学習と同じで、意欲があれば他の要素は必要ありません。しかし、そうした意欲ある人たちが少数派であるのに反して、美術館が増えていく、そして、美術館の一角には現代アートも並んでいるという現状がありますね。つまり、それを鑑賞する方々が、我々の税金を使って、なぜこんなわけのわからないものがあるのだ、と考え、両者が衝突していることが一番問題なのですよ。
一般的に通用するかたちでは言いにくいので、ここからは 私個人の考えとしてお話しすることにします。文化とは歴史的に、文化なるものに目覚めた少数の人々が残してきたものであり、民俗芸能的なものを別にすれば、はっきり言っていわゆる「大衆」が残してきたわけではありません。
(そもそも「大衆」はどこにいるのか?)昔は、大体がお大尽(大金持ち)や権力者がその一端を担っていました。
戦前は、現在の累進課税とは違い、個人の大金持ちを許容していましたので、彼らがパトロンとなって、アーティストを援助し、彼らのコレクションが最終的に、美術館として形を変えてきた事実があります。その一方で、一般社会の中でアートとはどうあるべきかという本質的な問題が残されたままなのです。一部の恵まれた少数のためにだけ存在するアートにはいかなる社会性もありません。こういうわけで、現在、プライベートな文化への関わり方や残し方と、公共的な枠組みの中でのアートとの隔たりが、両極端化しています。
具体的に、ある一人のアーティストについて考えてみましょう。彼にとって、自分の作品が評価され、生活に困らない位に購入してくれるコレクターがいればさしあたっては満足でしょう。しかし、彼がキャリアを積み、社会的にも知名度を上げ、美術館(や有力な企画画廊)で個展を開きたいと思った時に、その願いの実現までの距離がとても遠いという現実に直面します。それと、もう一つ言えば、コンテンポラリーアートは欧米であっても少数派です。海の向こうは決してばら色ではないのです。これに関して、グリーンバーグが、「アバンギャルドとキッチュ」(1939年)の中で、大変恐ろしいことを言っています。

 −大変恐ろしいこととは、どのようなことでしょう。

彼が、「前衛が前衛として残る為には権力と手を結ばなければならない」とはっきり述べていることです。権力とは経済的中枢を指します。また、それは政治的中枢とほぼ一致しますから、前衛は経済的、政治的な道で残るしかないという考えなのですね。日本では、ほとんどのアーティストが権力の中枢と結びついておらず、前近代なものを未だに残しているのに対して、アメリカなどはアーティストが権力の中枢に近いところにいます。この典型的な例として、ミニマルアートがあげられます。これは、いわば知的エリートの為のアートなのです。彼らは社会の中で発言権を持ち、経済力も持っています。本質的に知的なミニマル・アートは彼らが気に入れば何の問題もないのですが、彼ら以外の人もしくは「大衆」が見ると、「どこがアートなのだ」、と排除されてしまいます。また、アド・ライン ハートという真っ黒な絵を描く画家がいましたが、観客から作品を意図的に傷つけられるということが何回かありました。この事件は欧米においても、いかにコンテンポラリーアートが受け入れがたいものであるかということを如実に示しています。これは美術にたいする愛憎というか、それだけ美術を愛しているから、また傷つけてしまうということでしょうね。対して、日本ではもともと美術に無関心な風潮(それは趣味の問題でしかない)がありますので、わからなかったら無視しておけばよい、という考えに至るのでしょう。ですから、こういう過激な事件はほとんどありえません。

−それでは、現代アートを受け入れがたいものだ、と考えている人々に対して、どのようなアプローチの仕方が考えられるでしょうか。

非常に興味のある問題ですね。彼らには、それなりの理屈をもった説明をしなければいけませんが、それはあくまでも説明に過ぎないのです。この問題に言及した本も書いていますが、(『中・高生のための現代美術入門 ●▲■の美しさって何?』平凡社ライブラリー2003年)この本をお読みになった方でも納得しない人はしないのですね。
本を読んだ後で、作品を見直しても、何の感動もしないとおっしゃいます。つまり、ここが大事な点ですが最初に感動しないかぎり駄目だ、ということですよね。そもそも感動は内容理解とは別のところにあり、直感的な何かなのです。その感動を伝える為に、自分なりの説明をしようと思った時に、それなりの説明の仕方はあります。しかし、最初は、作品そのものとの神秘的な、としか言いようのない出会いがないかぎり、わかりやすいと思われている具象絵画ですら、本当の意味では何も感じていないに等しいのです。ですから、私は現代美術を理解させるために、いたずらに衒学的なことを排除し、できるかぎり専門用語を使わないこと以外に、現実的には、特に何もする必要がないと考えています。というか、それ以外にやりようがないと思っているのです。

何もする必要がないということについて、もう少しお話いただけますか。

何かするにしろ、その行為(理解してもらおうという)にあまり意味はないのでは、と考えます。日常の中で片隅にあるようなものがアートで、それに気付かない人がいればやむをえないことではありませんか?。公園に立っている一本の木と同じように、その木に気付いてもらえるかどうかが問題で、気付いてもらえた時に、こうしよう、ああしようという話は当然出てきます。しかし、気付かせる為に手を引っ張って木の前に連れてくる必要はないし、またできないのです。繰り返しになりますが、アートとは木のように、そこにあるもので、それに出会うか出会わないかで道が分かれていくと考えています。消極的な意見かもしれませんが、芸術の理解というのは、こういう現実を見据えて考えていかねばならない問題だ、という認識は持つべきだと思います。

−なるほど。それでは先程質問させていただきました参加する要素については、いかがでしょうか。

インスタレーション的なものや、大衆参加的なアートであれば参加型は可能でしょうが、絵画は立って見ているだけで、参加するのは困難でしょう。参加以前の話としてアーティストと同じ「場」の中に身を置くことが重要なのではないでしょうか。その場に身を置いていれば、後は各自の判断に委ねればいいと思います。場の中にあるということは、場の中の一員となることを指しますので、広い意味では参加しているのかもしれません。一番いけないのは、義務的に、参加せねばならないと考えたり、参加すれば何かがわかるのではないか、と考えたりしてしまうことでしょう。また、参加を実質的に支援と言い直してみますと、援助が出来る人と出来ない人の区別が生じますね。

これらのことから、参加する要素が必要、という考えにあまり意味がないと私は考えます。むしろ、遠くからでもよいから共感してもらいたいと切望します。

−最後に、何か付け加えたいことなどございましたら、お聞かせ下さい。

昨今アートマネージメントが良く話題に出されますよね。私はそれを、一種のまやかしであるかのように感じています。アートマネージメントといえば聞こえが良く、その触りを勉強すれば、誰でも小綺麗なことが言えるわけです。
しかし、美術品があちらこちらにあって、それらに対して色々な意見を言う人がいる、という整理しきれない状況が生じた時に、初めてアートマネージメントが意味を成すのであって、少なくとも今の日本では必要ないように感じますね。この話に関係しますが、公共的な枠組みの中でアートがどうあるべきか、という問題に対して、現在、客観的な意味での意見の一致を見ていません。この問題を考えることすらしていないのではないか、とも感じます。ただし企業やデパートなど、局部的なものの中でのアートは存在します。現在では、芸術の前衛に見合うようなものが日本の社会の中にまだ無いのです。前に、日本は前近代的だとお話ししましたが、具体例をあげると、アーティストは、タコみたいなもので、お腹が空くと自分の腕をちぎって食べてしまう状況にあるのですよ。つまり、アーティストは 自分の作品を見てもらう為に、画廊にお金を払い、お金が減る状態にあるのです。ギャラリーもそれで大もうけしているわけではなく、ぎりぎりのところで経営しています。
時々作品の売買もあるのでしょうが、そのお金は微々たるものでしょう。このような形式が、日本にまだまだ残っています。ただアーティスト(と私たち見る側)がこの状況を重宝がっている以上、これは必要なシステムなのです。
よく、貸し画廊なんてけしからん、欧米にはそんなものはないという人がいますが、もしなくなってしまえばアーティストの発表の場は、どこになるのでしょう。幾つかの美術館(とほんの一握りの企画画廊)のみになりますよね。
そこで展覧会をするには、お話ししましたように、キャリアのあるアーティストにさえも、厳しい現実が待っています。美術館側も、現代アートでは人が集まらないと言って企画を敬遠すれば、アーティストの作品制作に対する社会からの報いが一切なくなるのですよ。いろいろな画廊がありますが、貸し画廊があってこそ、日本の現代美術界があるのだということを忘れてはいけないと思います。
また、なぜ絵画に感動するのか、というのは興味深い問題です。先験的に素晴らしい絵画があるということを知り、文字通りそのような現実があることを確認するのですが、それに対する解説はありませんよね。しかし自分なりの納得の仕方があるのであろう、と私は考えています。絵を見る判断とは「このお菓子食べてみたのだけど美味しいよ」という判断と殆ど同じだということです。完璧な意味での正解はないかもしれませんが、メッセージとして伝えられるだけの価値がある判断ということを意味しています。
最後に私は、「絵画とは何ぞや?」といった原理的なテキストを時々書くことがありますが、私は状況と一線を画する傾向が強く(それゆえよくマイナー好みと言われる)、自分の中の原理的なものを大事にしたいと考えています。
「絵画」にこだわるのも、この最古の形式に美術の原点を見ているからです。職種を書く時も、美術評論家と書くのに非常に抵抗があります。だからポスト(肩書き)を書いたり、美術史家と書いたりします。もともと天邪鬼のところがあり、状況にどっぷりつかっているように見えるのが嫌なのですよ。評論家っていうのは何でも評論しないといけない風潮があるでしょう。美術批評家というのは一般的な言い方ではありませんが、判断をきっちり示すのが批評家であると考えていますので、私の立場はあえて言うならば美術批評家になるのでしょうね。ところで、御存知かとは思いますが、日本語の「評論」も「批評」も英語ではcriticismで間に合うのですよ。つまり、ただの解説ではないということです。面白いですね。

(聞き手:Oギャラリーeyes

 

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