建畠晢(多摩美術大学学長)

an interview

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−始めに、現代のアートシーンを語るにあたって建畠さんは、現代をどような時代であると分析されていますか。

難しい質問ですね。大きく考えれば、欧米が事実上主導してきたアートの時代から(もちろん欧米からは今も大きな 才能が出てきていますが)、むしろアジア、中南米、アフ リカなど、今までのアートの先端以外の地域での動向が注 目されるようになっています。特に中国を中心として、非常に新しい美術が台頭してきていますね。第一次世界大戦前はパリ、第二次世界大戦後はニューヨークを中心として新しいイズムが発信されてきました。しかし、現代では統一的なセンターが解体され、多元的な状況を呈していると考えます。それが1980、90年代で美術が置かれる状況が大きく変わってきた主要な側面ではないでしょうか。

−では、1990年代以降、アートはどのような発展を遂げていくとお考えでしょうか。

発展を遂げる、という考え方は、物事が良い方向に進化していくように捉えられがちですが、それぞれの時代に重要な美術の動向があったので、私は、発展史観に立って考えるべきではないと思います。

−それでは、どのような視点からアートを捉えていくべきでしょうか。

発展、というのではなく、アートは変化していくでしょうし、それぞれの時代の下部構造に対応しながら、新しい様子を示していく、との視点から捉えることが賢明でしょうね。

−新しい様相について詳しく教えていただけますか。

先程もお話ししましたように、大きな局面として、マルチカルチュラリズム(多文化主義)が挙げられるでしょう。現代では、美術は、各国の社会的、歴史的背景の下で様々な様相をもって展開されています。戦後のニューヨークでは、抽象表現主義から、コンセプチュアル・アートに至るまでリニア(線形)に美術が展開していました。

冷戦構造など、政治的な必然性があったにしろ、線形の歴史観が支配して いました。現代の、文化の多様性を是認する動きは、国際的なイズムを一元化する動きよりも、遙かに寛容で、アートを活性化させる働きがあるので、好ましくも感じています。しかし全体を覆うような普遍的な原理が無いことは、問題とも成り得ます。つまり多様性を認めることで、全体のコミュニケーションが難しくなるという危険性が生じているのです。悪く言えば多文化的な原理主義に陥る恐れがあるのです。例えば、自らの文化だけを排他的に主張しているといって、宗教的な原理主義は良く批判されますよね。民族的不寛容が戦争や大虐殺を起こすことも稀ではありません。「いかにしてマルチカルチュラリズムを寛容なコミュニケーションの思想に結びつけるか。違った秩序を持つ他者の文化をどのように許容するか」とはアー トにも課せられた重要な問題なのです。アートはコミュニケーションの手段となるものの、アート自体は別々のものです。その際、文化的な違いのあるバックボーンを過度に強調するのではなく、違うものをどのようにして認めるべきか、そのことを考えることがこれからの課題になるでしょう。

−アートと寛容なコミュニケーション思想というキーワードに関連して、次の質問に移りたいと思います。昨今、アートと福祉など、様々な視点からアートが捉えられている現状があります。そのような中、アートと切っても切り離せないものに何があるとお考えでしょうか。また、新たに提供したいアートへの視点はありますか。

幾つかありますが、まず、ある意味でのグレーゾーンを認めることでしょうか。グレーゾーンとは、自文化のアイデンティティを認めると同時に、他文化のアイデンティティを認めることですが、非常に逆説的な言い方をすると、その文化的な他者性を絶対視するな、ということを意味します。違いを根本から認めてしまうと、不寛容を招く恐れがあります。マルチカルチュラリズムは、しばしば、ナチスの思想であったと言われますよね。自分たちが団結するために、他者のアイデンティティをねつ造することもありま した。ナチスは、違いを絶対化し、結果として他者を仮想敵に仕立ててしまったのです。また、相手の文化を理解するときには、相手の文脈に即して理解せよ、という考え方もあります。自分たちの理解の方法で他者を都合良く理解してはいけないというわけです。一見正しく見えますが、これも非常に恐い思想なのですよ。ある一国の文化の下で生まれた人が、他国の文化を本来の文脈において、根源から理解することは出来ないのです。悲しいことですが、根 源から理解できないという、その断絶感が不寛容を招く可能性は否めません。しかし、ここでアートが非常に大きな役割を果たします。

他者が作ったアートがありますよね。本来の文脈はわからないけれど、自分たちの文脈に即して「素晴らしい」と理解し感動できる。

アートに関しては、喜びを分かち合えるのです。原理主義の観点から見ると、根源的抜本的に理解できているかどうかわかりませんが、同じものを通して喜びを分かち合えるというのが、アートの力であり、コミュニケーションとしての側面ではないでしょうか。これが、まず一つ目です。

−二つ目は何でしょうか。

二つ目として、メディア(アートの表現方法手段)の変化が挙げられるでしょう。アートの状況が多様化している、と話しましたが、統一した基盤が完全に無くなるわけではありません。同時代の精神を呼吸しているために、今までとは違う一つの方向性が表れるのです。

絵画と彫刻は、アートの中で今も未来も非常に重要な基盤で有り続けるでしょうが、インターネットを始めとするサイバースペース、様々なデジタルテクノロジーの基盤の変化に沿ってアートの表現も変わってきます。現代では、メディアアート、インスタレーションなどが出てきていますね。将来、どのような文化基盤があるにせよ、それらは、若いアーティストを惹き付け、拡大していくことでしょう。また、この点が重要なのですがそれらは、今までのジャンルの規範とは違った形で、コミュニケーションツールとしてのアートの性格を変えていく可能性があります。当面、メディアアートがその役割を担うでしょうが、これからの新しい時代においては、新しいコミュニケーションツールができることでしょう。

また、例えメディアアートが時代から消えてしまったとしても、決して、表現として取るに足らないものだ、ということを指すのではありません。その時代の真実を孕んでいるものですし、本質的なものの表れですから意味あるものなのですよ。そして、過渡期の思想が非常に重要だと思いますね。

−過渡期の思想について詳しく教えていただけますか。

本質的なものが、将来に確固たる形を取って表れるという考えは間違っていると思います。将来も、今とは違うある種の混乱を孕み、混乱しているからこそ、文化が生き続けると考えます。混乱を手放しに良いと評価することは出来ませんが、混乱には、常に変化していく力があります。文 化が確固とした規範を持つと、やがては文化の死を意味するでしょうね。

−なるほど。時代毎に生まれるコミュニケーション性を持つアートを精確に捉え、考える姿勢が大事になってきますね。

そうですね。私は、ビデオアートの創始者であるナムジュン・パイク氏を尊敬していますが、彼によって、ビデオアートが、絵画や彫刻のような安定的なものになったわけではありません。将来、ビデオアートというジャンル自体が 無くなっているかもしれません。しかし、コミュニケーションツールとしての、ビデオのテクノロジーに非常に大きな意味を持ったのです。彼は、曖昧さがあるからこそお互いにコミュニケーションが出来る、という「融和の思想」 を持っていました。ある種のユーモアによる寛容の精神とも言えるでしょう。彼はそれを、融和的なイデオロギーで支え、彼自身はユーモア、ウイットなどを強く持っていました。彼は、マルチカルチュラリズムの時代を的確に把握し、アートの性格を提示した巨人だと思いますね。これが二つ目です。

−三つ目は何でしょうか。

アートが本質的に、反社会的な側面や批判機能を持つことを、理解する視点です。アートと経済に関する話から始めましょう。アートにも、お金が必要なのです。例えば、美術館や、アーティストの活動は、政治的、経済的な状況の影響を強く受けています。また、企業メセナなどの経済的な基盤なしに、アートの活動は支えられません。アートは直接的な産業に比べれば利潤を生まないと言われますが、アートのコミュニケーションツールとしての側面が、社会を健全にしていく為に必要である、と強く主張されています。その結果、アートには、社会が正常な活動を行う基盤を支える力があるから、投資が必要だという、美術館やアーティストを支える理論が優勢なのです。このことから、投資を増やすことで、社会ではコミュニケーションがさかんになり、暴力や戦争から解放されるという考えが生まれています。しかし、それでいいのでしょうか。その考えを展開するとアートの経済的な位置づけが非常に強くなり、一方ではアートに対する非常に偏った文化観を生んでしまうのではないでしょうか。アートは儲かる、という幻想に陥る可能性もぬぐい切れません。アートを、経済的な側面 だけを見て理解した気になってはいけないのです。初めにもお話ししましたが、アートには反社会的で、「触れば死ぬぞ」という危険な側面があるのです。この側面を文化経済学的に理解しようという試みもありますが、反社会的なものには反社会的な意味があると考えています。

危険なも のとしての純粋芸術が、「アートは良いものだ」という文化的な柔らかい言葉で正当化されることには問題が多い。
ここで、過去の偉大な芸術が、現在、多くの人たちに楽しまれている状況から、アートは最終的に人々に承認されるのでは?という反論が出てくると思いますが、ゴッホを例に挙げてお答えしましょう。

現代、彼の絵画が親しまれている理由は、同時代ではないからです。つまり、我々の住む社会とは違うからなのです。当時の社会において、ゴッ ホが受け入れられなかったのは、ある意味で社会がゴッホの本質を理解していたからかもしれません。彼の持っているモラルや芸術観は、純粋であるがゆえに、危険だ、と本能的に大衆が察知したからでしょう。このようにアートが純粋であろうとすること自体、非常に危険を伴うのです。
アートは、社会のためでも、人生のためでも、人々の幸福のためでもなく、アート自身のために存在する側面も持っています。このような、アートの危険性を見据えた上で、今後、アートに関する問題は総合的に考えられねばならないでしょうね。

−最後になりますが、アートの様々な側面について、もう少し掘り下げた質問をさせていただきます。以前、横浜トリエンナーレに関して、「アートには救い、生きる力を与えてくれるものがある」といった内容のインタビューを拝見致しました。アートのその側面について詳しくお教え下さい。

横浜トリエンナーレについて、手短に触れておきます。現代アートだけで国際的な大きなフェスティバルを開くという試みで行われたイベントなのですが、非常に多くの人々に親しんで貰うという責務がありました。私自身は、スケールメリットによって、求心力が働き、多くの人々が来るだろうと思ってはいたのですが、予想を上回る動員数になり、多くの人々が現代アートを楽しみ、承認するようになった、という希望的観測が持たれました。しかしながら、それは幻想なのです。人々は、フェスティバルに集まったに過ぎません。ですが、私は、現代アートでもフェスティバルができる、ということ自体に意味があると考えています。これからも続ける必要があるでしょう。

さて、質問の回答に移りましょう。私は、アートが、社会を批判、攻撃し、人々を絶望に陥れるだけだとすれば、どんなに素晴らしいものであろうとも受け入れ難いと考えています。
最終的に希望を与え救済の道を与えてくれるものであるからこそ、我々にとってアートは必要なのです。私は一方で詩を書いていますが、詩とは、マイナーな領域であり、不思議なジャンルです。美術や音楽のように名声を獲得し、経済的に成功しているような、輝けるスターはいません。
詩とは、根源的に、経済的な活動とは無縁であり、有名でなくても構わない、という側面が強いのです。しかしながら、詩はアートの最も重要な根幹を支えています。私はそれがある意味純粋な芸術の有り様を表しているようにも思うのです。この視点を大切にしていきたいですね。

(聞き手:Oギャラリーeyes)

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