●Depth

 

 

■展覧会趣旨[Purpose of Exhibition] 

本展のタイトルである「Depth」とは、奥行きや深度といった距離や深みを意味しますが、私達が日常で体験する奥行は、現在の位置と対象との間隔を測るために視覚あるいは触覚を介在して距離を知覚するといったものです。この他にも2次元による像の中に3次元的な空間や距離を仮想的に知覚するという奥行もあります。どちらも視覚や体験によってもたらされるものですが、人や社会から派生する親近や敬遠といった距離感、大規模な震災を通じて、平穏と思われた日常と想像を超えた現実との狭間で生じる隔たり等、これらは心的な距離も影響しながら捉えがたい奥行を生起させます。奥行とは、距離を知覚しようとする身体と精神、それを取り囲む様々な事象とその背後にあるものと結びついて存在する一空間といえるでしょう。本展では、各作家がそれぞれの視点で「Depth」というテーマを捉え、そのイメージや奥行の有様に焦点をあてます。

                         OギャラリーeyesO Gallery co.,ltd.)                      

 

児玉靖枝 Yasue Kodama

深韻―水の系譜(雪景)]

78.0×106.0cm ハーネミューレ紙に木炭、ガッシュ 2014

深韻―水の系譜(雪景)]Y

78.0×106.0cm ハーネミューレ紙に木炭、ガッシュ 2014

深韻―水の系譜(雪景)]W

78.0×106.0cm ハーネミューレ紙に木炭、ガッシュ 2014

深韻―水の系譜(雪景)]]

78.0×106.0cm ハーネミューレ紙に木炭、ガッシュ 2014

 

 ■児玉靖枝 コメント  [Artist Statement]

雪景(―降り積もる雪によって隠されるものと、降る雪によって顕れるものと)をモチーフに、可視・不可視な存在の奥行きを探ります。

この辺りでは、ひと冬に数日だけ降雪によってあたり一面が白く覆われることがあります。いつも目にしているものたちが均質になり、日常的な距離感やスケール感を失う不安と同時に、非日常的な無垢な世界に覆われている感覚に心地よさを覚えます。でも、その雪はすぐ溶けてしまい、見慣れた風景があらわになってしまいます。

普段は、油彩によって自身の感受を描く行為に重ねるために絵具の物理的な現象を取り込みながら絵画として生成させることを試みていますが、今回は、包容力のあるハーネミューレ(ドイツ製の版画紙)に木炭とガッシュ。

紙に木炭で描く行為は、描くことの初心に立ち返るような心持ちにさせます。木炭で描く線は輪郭よりも陰影を生み出し、紙と木炭が触れ合う感覚や、指や掌で押さえたり刷り込んだりする感覚は極めて触知的で、何を見ているのか、何を描こうとしているのかという意識とは違う次元で、ひと時私を行為に没入させます。

そうして木炭で描写した上にガッシュを重ねていくのですが、可逆性を持つ水彩絵具は層を重ねるごとに下層も連動して揺らぎます。

描こうとしなければ情景を顕現させることはできないのですが、描こうとすればする程自身が感受している情景から離れてしまいます。この捉えがたさが主題そのものといえるのかもしれません。

■略歴 [Artist Biography]

1961年、兵庫県生まれ。1986年、京都市立芸術大学大学院美術研究科を修了。1986年、アートスペース虹にて、初個展を開催。以降、トアロード画廊(神戸)、石屋町ギャラリー(京都)、ギャラリー21+葉(東京)、東京画廊(東京)、セゾンアートプログラム・ギャラリー(東京)、Oギャラリーeyes(大阪)、MEM(東京)、松原通りギャラリーシルクロ(佐賀)等で、個展を開催。主なグループ展に、1992年、筆あとの誘惑−モネ、栖鳳から現代まで−(京都市美術館・京都)。1994年、VOCA 1994(上野の森美術館・東京以降`96 `97 `98年に出品)、光と影−うつろいの詩学−(広島市立現代美術館・広島)。1995年、視ることのアレゴリー(セゾン美術館・東京)。1996年、水際−日本の現代美術展−(ヨコハマポートサイド ギャラリー・横浜)。1999年、現代日本絵画の展望(東京ステーションギャラリー・東京)。2002年、未来予想図−私の人生劇場(兵庫県立美術館・神戸)。2007年、「DIALOGUES Painters’Views on the Museum Collection(滋賀県立近代美術館・滋賀)。2009年、LINK−しなやかな逸脱(兵庫県立美術館・神戸)。2010年、館蔵油彩名品展−資生堂ギャラリーと戦後の洋画と(資生堂アートハウス・静岡)、プライマリー・フィールドU: 絵画の現在−七つの〈場〉との対話(神奈川県立近代美術館・神奈川)。2012年、新incubation4「ゆらめきとけゆく」展(京都芸術センター・京都)。2013年、プレイバック・アーティスト・トーク(東京国立近代美術館・東京)、2014年、クインテットー5ツ星の作家たち(損保ジャパン東郷青児美術館・東京)等、多数出品

 

中岡真珠美 Masumi Nakaoka

[アショカ苑] 3

54.0×98.5cm カンヴァスにアクリル絵具、油彩 2014

[アショカ苑] 2

59.5×102.0cm カンヴァスにアクリル絵具、油彩 2014

[Go! バンテリン]

140.0×145.0cm カンヴァスにアクリル絵具、油彩、樹脂塗料 2014

[酒の館] 4

30.0×30.0cm カンヴァスにアクリル絵具、油彩 2014

 

 ■中岡真珠美 コメント  [Artist Statement]

今回の作品は看板のある風景を描いている。至る所にある看板だが看板の平面性を意識したとたん、景色に分断をもたらす。それに出合った時は、画中画の面白みを束の間楽しむのだ。

今回の試みは、看板という窓から、絵(タブロー)の窓までの間を「額」もしくは「枠」仮定として、窓と枠の反転、地と図の反転をおこすことだ。

 ■略歴 [Artist Biography]

1978年、京都府生まれ。2004年、京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。2004年、Oギャラリーeyes(大阪)※以降、毎年同ギャラリーで個展を開催。2005年、project N(東京オペラシティアートギャラリー・東京)2008年、INAXギャラリー2(東京)、第一生命南ギャラリー(東京)。2009年、view point(アートフロントグラフィックス・東京)※以降、毎年同ギャラリーで個展を開催。主なグループ展として、2004年、神戸アートアニュアル2004-トナリノマド(神戸アートビレッジセンター・神戸)。2005年、第一回倉敷現代美術アート・ビエンナーレ(倉敷市立美術館・岡山)では“準グランプリ”を受賞。2007年、VOCA2007-新しい平面の作家たち(上野の森美術館・東京)では“佳作賞”を受賞。2012年、新鋭各賞受賞作家展「New Contemporaries」(京都市立芸術大学ギャラリーアクア・京都)等に出品。パブリックコレクションとして,京都大学(京都)、京都市立芸術大学(京都)に作品収蔵

 

■展覧会テキスト[Text] 

Depth ―平面のはかり知れない深さ、おぼろげさ―」

永草次郎(美術批評、帝塚山学院大学教授)

 

Depthは、遠近法的な深さではない。凡庸なロマン主義における絵画以外への深さや内容でもない。児玉靖枝の物質=画面が視覚体験=自然と完全に一致する点での深い呼応、そして、中岡真珠美のキュビスムの発展上にある平面の重なりと不連続性が曖昧な深さ=浅さとしてなぜか琳派の超越した時空を想起させること。そうした計り知れない何かとの呼応や距離のことを指すのだろうか。あるいは、絵画面における他者の総称としてdepthがあるのかも知れない。

モダニズムの絵画では、浅さ≒平面こそが真髄とされ、抽象が絵画を代表した。必然的にdepthというテーマは、モダニズムへの挑戦を意味することになる。しかし、本展の作品はモダニズム絵画、すなわち平面的な表面として良質なものであることには間違いはない。

児玉の作品は分解の集積としての滑らかな連続性としてメディウムによる平面と視覚体験としての自然を一致させているのに対して、中岡は平面と色彩の物質的確実性を不連続ながら重ねて表面とし、連続と不連続の邂逅として生成する視覚体験と一致させている。両者ともに、物質=表面を透して、それ以外のものを透かして見せるものではない。その点で、視覚世界の深さと絵画の平面が矛盾せず、視覚体験としての自然の模倣がそこにはある。

1980年代にモダニズム絵画の理論は偏狭なイデオロギーのように扱われ、批評も表面の形式分析から、記号論的な意味構造に着目することになった。抽象でない復古的な歴史画も前衛のように見られた。

1990年代は世界情勢の激変、デジタル・ネットワークの到来を受け、マルティカルチャリズム、マルティメディアの表現がまさに多様な隆盛を示し、絵画は工芸品か落書きのようにジャンルや物質性に引きこもる古風なもののように見えた。

2000年代、さらに現代美術とイラストや漫画との区別が消えたかのように見えるとき、ひきこもる古風なものだけが鑑賞すべき作品で、他は参加するもの=文化祭となった。

2010年代、万能に変化しうる構造であるネット社会につながることなしで余暇を過ごせない時代が訪れ、また、万能に変化しうる細胞による治療に関心が集まっている。アートもいかなる欲動も現前させうる万能な構造であることにそのよりどころが求められ、ひとつのめざすべき形式のことではなくなっている。この構造を有効に機能させているか、または、その機能の特殊な限定がある種の欲動の現前に有効足りうるかによって、共感と評価が寄せられる。

ここにおいて、距離感の表現の不便さこそが万能さにつながっていることを自明としてきた日本の絵画の特質こそが、その平板さと明るさのなかに限りなき万能さ―深遠さとおぼろげさ(幽かさ、暗さ)―を併せ持つ点で、現代絵画の質として渇望される。

 

児玉靖枝の「深韻」は、時代を経た絵画の本質的な構造―物質の平面へのひきこもり―を自然とメディウムとの絶えざる対峙/同一化の技術をもとに実現する良質な現代絵画を生成させている。児玉は絵具と風景の形以上の奥深いところでの完全な呼応=韻を平面上で示す。静と動でさえも呼応する。表面と奥行さえも。そして、ロマン主義のように絵画以外のところで深くなってはいない。質感こそ異なるが、自然との絶えざる交感をキャンヴァス上の絵具の質感に帰すテオドール・ルソーが示したように。深韻を表現することより、それ自体が深韻となるようだ。そして、ベルイマンやタルコフスキーが映画で表現した時空の韻が絵画というジャンルと物質へのひきこもりのなかで実現されるならば、おそらく児玉の絵画のようなものであり、それが日本的なる特質と言い換えられることもあろう。

 

中岡真珠美の作品は、一見滑らかに見える明るい画面に、遮蔽や分断をしなやかに混入させ、あえて絵画面の連続性を脅かす困難さを背負っているが、容易には気づかれない。その困難さが明るさにともなう快さとともに画面上で享受され、適度なストレスとして絵画の喜びの構造に変幻しうることを示している。それは俵屋宗達の松島図のような絵が有する繊細な材質や構造ゆえに背負わざるを得ない困難さが逆に造形上の固有なリズムや測りがたい奥行きの在り処を生成することと似ているが、中岡は現代の自由さの中でそれを表現している。距離の造形化は逆に近づき重なるときにほのかに生まれるものであるが、その時には距離は計量を無化する絵画上のレトリックとしての遮蔽や不連続となる。クリアであるが、ほのかであり、平面的であるが重なりに満ちている。滑らかであるが、分断に満ちている。

 

Depthは奥行を平面のえもいわれぬ質感や、接近という重なりで示す日本の絵画が世界のどこにもない深遠さを有していることについて、すなわち他の文化から見た日本の絵画の持つはかり知れなさ“depth”についての省察を見る者にあたえるであろう。さらには日本洋画の先達がモダンアートの亜流ではなく、浅さの中にはかり知れない深さを示す別なものであったことに通じている。

自己批判=限定的なモダニズムの絵画と一致しながら、モダニズムのルールや西洋的な自他の概念のない日本の絵画表現に回帰的に至ることについて、もはや懐疑的であったり、自己批判的であったりする必要のない時代が訪れ、そこにおける表現がなおも自己批判的なアヴァン=ギャルド足りうるかが問われている。その難問、モダニズムと単なる通俗的な回帰ではない日本絵画との稀有な邂逅を、絵画の平面における他者としてdepthと称するのも妙を得ている。                                    

 

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