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本間 全 の 業務報告 !?

 6月に福祉 相談事業開始。独自の支援システムや施設をもっていない現在のNPO釜ヶ崎にとって可能なことは既存の福祉のレールに乗せること。

個々の相談者の個別性を可能な限り尊重し、その事情に適ったキメ細かなケースワーク・野宿を脱した後も継続性のある支援をということに重点を置いている。

輪番労働者を対象にした相談活動については65才以上の労働者をピックアップ、賃金の袋に福祉相談のアンケート用紙を添付し、賃金支払い時にスタッフが声を掛けるという方法をとった。アプリシェイト・陽だまり・おはなと相次いで「福祉アパート」がオープンしたことも重なり、NPOが相談を受付けて居宅保護という「福祉自立」を果たした輪番労働者は実に130人以上に及ぶ。その他施設入所・入院などのケースを合わせるとおよそ200件を超える相談を受けたことになる。

また、直接NPOの事務所に訪ねて来たり、地区内路上で福祉担当者に声を掛けてくる相談者も増えた。

NPOが福祉相談事業でしてきたことを整理し、何が出来たのか、これから何が必要なのかを考えてみたい。

生保申請受理が難しかった 幾つかの事例

65歳以上に関してはアパート入居さえしていれば稼動能力は問わないということなので大半は拍子抜けするほど簡単に生保申請が受理される。しかし様々な生活史を持ち多種多様な社会関係の中で生きている人間のこと、そうすんなりうまくいことばかりではない。受理がスムーズに行かない場合の原因は様々。多くは資産や年金・借金の問題だが、その背後には家族との関係が絡んでいたりすることも。

事例 @

収入は時々の現金仕事と特掃のみ。この何ヶ月間かの彼の寝場所は奥さん名義の軽自動車だった。家を出たのは、彼と設計事務所を共同経営する息子さんと仕事上のことでケンカ、修復不能なまでに関係がこじれてしまったから。「これ見てみぃ」と突き出された頭には痛々しい縫い址が。息子さんに灰皿でどつかれた時のもの。

生保申請時に自動車は資産として認定され、このままでは受理されないだろう。本人は自動車を手放す心の準備が出来ていたのだが、奥さん名義なので大阪ですぐに廃車などの形で処分するというわけにもいかない。しかし生活が落ちつたらすぐ奥さんに自動車を返しにいくという内容の誓約書を書くことによって保護申請は受理された。1ヵ月後、彼はかなりの長距離を自ら運転し、奥さんに自動車を返しにいった。

事例 A

 配偶者・子どもとの折り合いが悪く同居が不可能で野宿生活。本人の年金があるのだが、過去の不義理の代償として全額配偶者に渡す約束をしている。

別居ということにして生保を受給しようとしても年金の分が収入認定されてしまうので、保護費だけでは生計が成り立たない。NPOでは彼に配偶者との話し合いをするよう勧め、夫婦同居して生保受給して生活したらどうかと助言。彼が家族に相談したところ、一旦配偶者はその案に同意してくれたが、その後ひるがえってやはり夫婦同居は出来ない、子どもと同居して生活すると決断。その後ふたたび配偶者と話し合い、せめて年金を自分の手元に戻るようにお願いに行くといったまま行方不明。家族とうまくいったのであればよいが。

事例 B

年金が一ヶ月換算で7万くらいあるのだが、そのほとんどを姉に握られているAさん(65才男性)の場合。姉が彼の年金を財源にAさん名義の保険金をかけている。保険金の受取人は姉で、この保険契約自体Aさん本人には何の得にもならないどころか、保険金が生保申請の際に資産として認定されるためこれを処分しなければ保護がかからない。彼は福祉アパートの入居手続きも完了していたのだが、「姉がせっかく自分のためにかけてくれている保険だから崩すことも処分することもできない」として、結局、年金だけで自活する道を選ぶことになった。彼自身が選んだことではあるが、収入は実に僅かなので生活は苦しそう。

年金担保の借金

 経済的困窮状態に陥った人たちの多くが福祉事務所・市更相などに相談するより前に、借金を作ってしまう。失業に起因する生活苦や肉親の入院費のために借金を作ってしまったケースもかなり多い。

特に年金受給者の少なからぬ人たちが、街金相手に年金担保の借金を作ってしまっていて、そのことが福祉の適用を受ける際の障害になってしまう。

本来、年金・生活保護の受給者がそれらのお金を債務の返済にあてることも債権者がそれらを差し押さえすることも法律で禁じられている。

しかし、年金担保の融資をする業者は証書や通帳を取り上げ、強制的に返済分を徴収するという方法をとる。年金は受給者の手元に残らないにもかかわらず、受給額はそのまま収入認定されて、手元に入ってくるお金は「最低限の生活費」から年金収入を引いた差額分のみ。最低限の生活費より額が小さいわけだからこれだけでは生活が成り立つはずがない。年金担保でない借金なら住民票を新住所に移さないで時効を待つという策も立てられるのだが、年金担保の場合はそうはいかない。

もちろん、保護費が個人の借金の返済に充てられるとすれば、生活保護法の趣旨にも反してしまう。

放漫経営で破綻した銀行やデパートを公的資金で再建するくらいなら、最低限の生活を保障するという生活保護法の理念を全うすべく、こうした問題を抱えている高齢の野宿者に弁護士費用の扶助を出してもいいのでは、と思うのは虫のよすぎる話だろうか。年金担保は違法な融資。悪質な業者は弁護士の介入があればうまくいくことがほとんどであるのだから。

事例 C

年金担保の場合、債権者にとっては回収が確実なので金利が安く設定されていることが多いが、とんでもない暴利の悪徳業者の例。弁護士からの内容証明に当の業者はあっさり通帳・印鑑・カードを送り返してきた。さらにその後も弁護士の追及・交渉の結果、法定金利で計算しなおした場合の差額、つまり過払い分を丸ごと取り戻せた。

弁護士の助けをかりるならば当然費用が必要になってくる。このケースでは過払い額がそこそこあったので弁護士費用を捻出できた。過払いの戻ってきたお金で生活できる間、生活保護を打ち切ることとなった。

事例 D

9月に今年度初めての就労だったCさんは高齢者アンケートで話を伺ったところ、肺ガンを患っているとのこと。さらに詳しく話を聞けば、次のような話だった。

体調のひどくなった4月に医療連の勧めで医療センター受診。肺ガンで胃にも転移していると告げられる。入院。胃の部分摘出手術。肺ガンの方は医療センターでは手の施しようがなく、5月に化学療法を受けるため市大病院に転院。副作用のきつい化学療法だったが3ヶ月の闘病生活によってガンの増殖は抑えられ、左肺の病根も小さくなった。完治は望めない状態だったが当面は普通に生活できる程度まで回復。8月に退院の運びとなった。

しかし、退院時に彼を待っていたのは入院費の請求だった。その額17万あまり。もちろん病院側は一昔前のサラ金業者のような厳しい取り立てをしたわけでもなかったのだろうが、耳の遠い彼の目にはそう映ったのだろう。逃げるように釜ヶ崎へ帰ってきたという。

年金額は2ヶ月でおよそ19万。1ヶ月換算9万ちょっと。国民健康保険を持っているので、入院中の自己負担分を支払って残る金額は3万前後。生活保護(入院時の医療扶助)にかかれるかどうかギリギリの年金額だ。こういった場合でもお金がないなら、次の年金が支給されるまでの間だけでも生活保護が適用されるのだが、なぜそうならなかったのか。

彼の場合も街金から年金担保の借金があった。2ヶ月に1回、年金全額をこれまでの借金の返済にあて、その都度あらたに18万借りる。終わらない借金の連鎖が99年の秋頃から続いていた。医療センターのケースワーカーも彼の困窮を何とかしようと尽力されたのだが、この借金がネックとなり、福祉処遇のレールに乗せることが出来なかった。

 Cさんは退院後、8月の年金支給日の翌日に再度18万を業者から借りた。その中から市大病院へいくらか支払った後、なけなしのお金で9月の中ごろまで簡易宿泊所で生活していた。再び体調が悪くなり、NPOスタッフが呼んだ救急車に乗って2度目の入院。もはや末期の状態の彼に残された治療法は、放射線治療くらいなのだが、それが可能な市大病院は満床。他の病院でベッドが空くのを待つ。その間に入院しているCさんの代わりに借金のループの切断を試みた。つまり今新たに金を借りないようにして10月の年金全額と12月分の一部を返済に充てれば借金は完済する。その返済計画書を市更相に提出したところ、「年金分を収入認定せず・9月の入院時に遡って」というかたちで特例の医療扶助がかかった。

 12月の年金受給で生活保護の取り扱いが難しくなったが、市大病院への支払いを完済すると手元に残る額がなくなり、継続に。11日、人生を終えられた。

福祉自立の後のこと

Dさんは67才。夏ごろNPOの紹介でアパートへ入居した。2回目の居宅保護での生活である。物静かだが人当たりのよいDさんは、繊細な人なのだろう。周囲の人間に気を使って気疲れしてしまうタイプのようで、前回保護が打ち切られた理由も、アパート内に対立しあう派閥ができて、アパートの雰囲気の悪さに居たたまれなくなり部屋を出奔した結果だった。

その彼が秋口に長期間のうつ症状と不眠を訴えてNPOスタッフの所に相談にやってきた。それ以前にも隣人の物音をかなり気にしていたが、今回はもっと深刻そうだった。

彼の相談は、TVで老人のうつ病の特集を見たのだが、わが身に思い当たることが多いので病院を紹介してくれということだった。さいわい彼の場合、うつ病など深刻な病気ではなく、ごく軽度の神経症と診断された。医者に自分の話を聞いてもらったことや何らかの病名が付けられることによって抱えているしんどさが承認されたという意味もあったのか、その後とりあえずの「快癒」をみた。

しかしDさんの問題は解決したわけではない。彼の「愁訴」は彼だけのものでなく、「福祉自立」を果たした人の多くが経験していると考えてよいだろう。

生活保護をとってしばらくして生活が落ち着くと、部屋に引きこもりがちになる人は少なくない。NPOボランティアによるアパート訪問の際には、たいていの方が快く迎えてくれるのだが、彼らと話していくうちに出てくる言葉は、アパートの設備に対する不満も多いが、見逃せないのはこんなもの。「今日は1日中TVを見ていただけ」「生活にハリがない」「友達はみんな死んでしまった」「話の合う人がいない」等。どうも暗い。多くの「福祉自立」をはたした人の多くが図らずも「生き甲斐の喪失」と「ひきこもり」のなかで生きているようなのだ。

世間での偏見とは異なり、日雇労働者の就労意欲が高いことは紛れもない事実だ。多くの人たちが仕事が出来ない今も朝500に起床しセンターへ出向くことを日課にしている。交通事故の後遺症でとても働ける体ではないEさん(62)もセンターへの日参を欠かさない。65才以上の輪番労働者にスタッフが生活保護を勧めても固辞する人が実に多い。彼らの口からは「たとえアルミ缶拾いであっても仕事を続けたい、せっかく声をかけてくれて悪いのだが、せめて70まで働かしてくれ。」といった言葉を頻繁に耳する。彼が70才になっても「75まで」「80まで」とか言って生涯現役を貫くのかもしれない。多くの生保受給者もまた、出来ることならこれからも仕事して自活していきたいと考えているだろう。

こうした勤勉な労働者気質のネガとして生保受給者の虚無感や孤独があるのだろうか。

仕事依存?

彼らのほとんどが日雇労働者であったこと。毎日必死で求職し働いて今まで生き抜いてきたこと。病気になっても面倒を見てくれる家族はない、しんどい時もゆっくり養生することも出来ず、かかれる病院はケタオチ病院だけ。医者の食い物にされ、酷い目を見る、というようなを経験を重ねて医療不信だけがつのる。そんなことを思えば、しんどい体にムチ打ってでも「とにかく働かな」となるのも無理はない。

福祉相談で実際に関ったケースで、痛々しくもガンの末期だというのに就労にやってきた人がいた。一人は体に激痛を抱えながらも、スタッフの勧めで病院にかかるまで、一切病院にかかるどころか野宿生活をしていた。その日も貴重な仕事のチャンスを逃すわけにはいかないと必死だったのだろう。彼は入院して2週間で無くなった。もう一人は末期のガンと知りつつ、「金がない」ということで働きにきた(前述の事例DのCさん)

こうなれば就労意欲が高い以上に、頼れるはずの社会保障システムの不備のせいで、病気でも「働かな死んでまう」と駆り立てられている、という方が正しいのではないか。まさに安心して病気にもなれないのだ。

そういった中を生き抜いてきた彼らの多くが、「福祉自立」を果たした後も、他者との人間関係を築く場や自尊感情の拠り所として仕事を求めるのは無理ないことに思える。彼らの虚ろな毎日をサラリーマンの“濡れ落ち葉”と同じように語れない。

 就労意欲自体は決して否定的なものではない。将来的には“生き甲斐就労”ということで生保受給者にも仕事を提供できればいいとつくづく思う。しかし、現時点でNPO釜ヶ崎は野宿者を強いられている人々全てが生活していくに足る就労数を確保できてはいないし、それゆえ生活保護受給者の方には、まだ野宿を強いられている仲間のために、「福祉自立」を果たした人は就労を控えて下さいとお願いせざるを得ないのが実状だ。

老いの受容は誰にとっても難しいと想像がつくが、またまだ働ける、働きたいと持っている人にも時の流れは押しとどめることはできない。この先、年をとるにつれ彼らの体も衰えてくる。その時も仕事に代わる何かが必要となる。

もてあます時間を埋める何か、労働と同等に「生き甲斐」の持てる別の何か、他人との繋がりを保証することやものや場所を、どうしたら彼らが見つけられるだろうか。最終的にそれを見つけるのは本人であるとしても、わたしたちはどんな形の手伝いが出来るだろうか。

アルコール依存の問題

アルコール依存の問題は釜ヶ崎を中心とする野宿者に関わる人にとって避けては通れない問題の一つといえる。多くの労働者の健康に酒が影を落としていることは言うまでもない。野宿生活を脱出しても再び路上に戻ってきてしまう人たち。こうした背景に酒が多かれ少なかれ絡んでいる。

前節で言及したような生保受給者の孤独・空虚は、手っ取り早く酒で埋め合わされる。酒に耽溺し健康と生活能力を損ねてしまうことや、酒を飲んで周囲とのトラブルを引き起こし、アパート退去を余儀なくされることも珍しくはない。

酒を飲むには飲まなければならない理由があるのだと、Mさんは言った。結局酒を飲む飲まないはその人自身の自己決定の問題であるとも。その言葉はアルコールの問題を抱える人たちと関るものにとって、何もすることがないといっているのでは決してないことは、Mさん自身が釜ヶ崎のアルコール依存症者の回復を支え続けてきた人であることからも明らかだ。

酒を飲まずに済むありかた・生き方、酒で埋められているものにとって代わることやものは、仕事をリタイアした生保受給者が「生き甲斐」を見つけるのと同様、最終的には本人さんが見つけるしかないのだろう。私たちに何ができるにか?。

NPOの手持ちのカードは少ない。病院の治療が本人に最高の結果をいつももたらすとは限らないが、アルコールの問題を自覚している人に関しては、専門病院への通院を促すことくらい。

アルコール依存の病識を持たない人へは、その人の移ろいやすい気分の流れに半分振り回されつつ、必要に応じて金銭管理を任せてもらうなどしながら、その人との付き合いを続けていくことくらいなのだろうか。その過程で本人が自分が飲まなきゃいけない理由・飲まずにやっていける方法などを見つけていけるようになるというのが理想だが、飲酒者たちの心の森はあまりに深い。

専門病院におけるアルコール依存症の治療プログラムは、断酒とその継続のための自助グループへの参加が中心となっている。それを可能にするには、依存症者本人の病識と、アルコールによってこれ以上ないほど自らの人生を駄目にしてしまったといういわゆる“底つき”の経験が前提となる。逆に言えば、アルコール依存症であるという病識がない人・“底つき“を体験しない人の治療は困難とされる。しかし現実には病識のない人のほうが圧倒的多数だ。また”底付き“というけれど、底を突き破ってしまったような人たちは、どこに行けばいいのだろう。

 帰ることができる「上の」方が見えない人や高齢者のアルコールの問題はどうせいっちゅうのか。

事例 E

 7月にアパート入居し、生保をとった輪番労働者のSさん(65才)も60才以降何度かアルコール専門病院・救護施設の出入りを繰り返してきた人。この半年間に3回スリップ(再飲酒すること)した。その度に預金通帳とお金を紛失したり、酒の上でのケンカに巻き込まれ大ケガをして救急病院に入院したりと周囲をヒヤヒヤさせるのだが、最近は毎日欠かさず通院しているようす。これからも何回もスリップするのだろうか。

事例 F

 Fさん(65才)は生活保護適用の9月以降も生活は楽になったようには見えなかった。飲んでお金を落とす・通帳を紛失するなど彼に飲酒の問題があるのは明らかだが、酒を控えてという周囲の言葉には今も反発を隠さないので専門通院どころか、内科の病院にも行きたがらない。

 もう一つ彼の生活を苦しくさせるのは、彼の野宿時代からの友人との関係だった。どうも彼らにタカられている様子。

年末も押し迫ったある日に友人たちと酒を飲んで酩酊した。その時に友人から金を工面してくれと言われたものの、印鑑を紛失。友人らとともに信金で改印の手続きをしようとしたところ、必要書類が足りないということで受付けられなかった。そのことに苛立った彼らは酔った勢いで、信金の窓口で座り込み、しつこくゴネた。「何で本人がここにいるのに本人確認の書類が要るんじゃ!」。彼らは駆けつけた警官に泥酔保護された。

それまで友人たちのことについてはっきりしたことを口にしない彼だったが、次の日には、「(彼らとの)縁を切りたい、釜ヶ崎の地区外に引越ししたい」と重い口を開く。持ちつ持たれつの関係のように見えるが、実際は自分自身の生活が成り立たないまでにタカられている、とも。

 事実、保護費が振り込まれて1週間も経っていないというのに、彼の預金の残高はわずかだった。付き合いがなくなったらかえって深酒してしまうのではないか、という危惧も浮かんだが、善は急げ、引越しが認められるのか福祉事務所に相談しにいく。

 担当ケースワーカーは「友人たちも悪いがFさん自身がお酒も止めてしっかりして、友人との付き合い方も考えなさい」とたしなめた上で、敷金・家賃の上限を提示、この条件に合う物件をFさん自ら捜してきたら引越しも認めます、という。

年明けに彼の部屋を訪ね、気持ちを再確認すると「引越ししたくない」という。

 やはり仲間との関係が切れることを恐れて引越しの決断が出来ないのか。それとも今のアパートの生活に愛着が湧いてきているためか。彼はこれからどうするのだろう?

事例 G

 71才の彼の野宿生活はかなりの長期にわたるもののよう。本人によれば「オイルショックの頃から」(!)釜ヶ崎で野宿生活をしてきたとのこと。市更相に残るケース歴も膨大な数にのぼるそうだ。病院や施設に入っても、その生活に適応できず自己退院・退所を繰り返してきたのだろうか。

当の彼は周りから見れば立派なアルコール依存症者なのだが、本人にその病識はみじんもない。

夏ごろ、NPO事務所の事務所の前を歩いているところを声をかけ、事情を聞く。よたよたと歩く彼なのだが、入院するような疾病は今のところない。かといって施設入所は保護歴から判断して到底無理。施設入所したとしてもこれまでの繰り返しにしかならないのだろう。一か八か。福祉アパートでの居宅保護しか野宿生活から脱する道はない。もし何か困難があれば出来るだけの支援をしましょう。そういうことで始まったGさんの「福祉自立」生活なのだが、残念ながら長くは続かなかった。

金を持てば所持金の一部は酒に消えて、大半はシノギに奪われる。部屋で飲めば昼夜逆転の生活になってしまい、夜中の独り言が隣人の安眠を妨げる。飲んで失禁、部屋を致命的に汚す。見かねた周囲の人間の説得は鼻から聞き入れない。金銭管理をこちらに任せてもらうことによって酒を遠ざけるようにしても、街角で道行く人に小銭をもらって飲んでしまう。酩酊した彼は決して暴れたりはしないのだが、近づく人たちにとんでもない罵詈雑言を浴びせ掛ける。

彼から酒を遠ざける試みは全て潰えた。

彼のライフスタイル

この人が本当にすごいのは、路上で哀れっぽく「百円ないですかぁ」と小銭を無心するのが上手いところ。天才的といえる。小柄で足腰も弱くよぼよぼと歩く姿を見れば、誰もが同情を誘われることだろう。そうやって手に入れたお金はパックの「鬼殺し」に変る。

その一方で気位も高く、実はおしゃれにもこだわっている。こざっぱりした格好をしているとは決して言えない彼だが、出かける前に必ず鏡の前で帽子の角度と襟元をチェックするのを知っている。

 部屋は酒を飲みだすとこれ以上ないくらいに汚れてしまうが、実はきれい好きで神経質。毎日灰皿を自分で洗っている。見知らぬ人に百円くれとは言っても、それ以外のところで他人の世話になるのは大嫌い。「もうええで、ひとりでやるわい」独立心と自尊心はえらく高い人なのだ。

失敗が重なって、入居から約2ヶ月で他の入居者からの苦情の圧力に耐え切れず退居を余儀なくされた。部屋はアパート側のはからいでいつでも帰って来られるよう維持されているのだが、当分の間彼はNPO事務所のあるドヤで寝泊りし、NPOスタッフの金銭管理のもとで生活をすることに。

酒で散々痛い目を見たこと、さらに周囲から散々苦情を言われてアパートを出ざるを得なかったこと。これらは自らの飲酒の問題に直面するには十分すぎる“底つき”体験に思えるのだが、今日も彼は飲んでいる。彼の長すぎる野宿の経験・あるいは野宿時代でなくてもこれまで生き延びてきた中で受けた辛酸は、わたしが思う“底”以上に、はるかに過酷なものだったのだろうか。

しかし注目すべきは、非常にゆっくりなものだがGさんに変化が見られること。近場に声をかけてくれる人間が多くなったせいか、前ほど飲んで荒らぶることは少なくなった。相変わらずガラの悪い言葉を投げつける彼なのだが、それに反応するこちらとのやり取りを楽しんでいるらしいこと、一見誰とも心を通じ合わせることのないように見える彼が、他のスタッフの前では「あいつはええやつやなぁ」等とつぶやくことがあるなど、これまで見えなかった部分を見せるようになってきた。もっとも、このことは「彼の変化」ではなく、むしろ彼と関る側の変化というべきなのかもしれない。(この後、私たちと彼との間で一悶着あり、彼は自身のお金を自分で管理するようになった。毎日ズブズブ飲んでます。これからどうなるのだろう。)

「自立」とは、「自活」とは・・・

野宿生活が長ければ長いほど、そこから脱した時にいわゆる「普通の」生活への「不適応」、「普通の」生活からの「逸脱」の傾向が顕著になる。しかしそれらを矯正し、更生させるという発想は不遜である以前に不可能だ。可能であるとしても時間がかかる。

アルコールの依存を始めとする「逸脱」や「不適応」。それに対する私たちの捕らえ方、そういった問題を起す人たちそのものに対する私たちの見方を、見直してみる必要もあるのかもしれない。

「不適応」や「逸脱行動」は、それが今は本人を窮地に立たせる原因になっているとしても、それによって彼をここまで生き延びさせてきたものなのかもしれない。飲酒もまた野宿生活を含めて彼らがこれまで生きる方途の一つといえる。逆に言えば、こうした不適応や逸脱は、厳しい状況への「過剰適応」なのだろう。

たとえば野宿生活の長いある人はお金があっても極力使いたがらない。寒波の到来にブルブル震えている。服を買う経済的余裕はある。一緒にコートを買いに行こうと勧めても生返事。ある日暖かそうなコートを着た彼を見る。どこかで服を拾った彼はと嬉々としてその話をする。

またある人は弁当を大量に買い込むのを好む。それを食べるのではなく、部屋に溜め込む。時間がたってムシがたかっている弁当やら惣菜のパック10数個が部屋のそこかしこに。それを処分しようとするとかなりの抵抗を示す。いつお金がなくなってもいいようにと食糧を備蓄するのだろう。タンスの中に弁当を見つけた時にはさすがにあきれたが、せいぜいが食中毒の危険があるくらい、胃腸の方も「過剰適応」して強くなっているのか、あるいは備蓄弁当は「お守り」みたいなもので実際に食べることがないのか、はっきりしないが少なくとも彼自身にとって不都合はない。

野宿生活という熾烈な状況を生き延びることを可能にしたことが、脱出した後にも逸脱や不適合となっているとして、それを矯正することは、本人の生きてきた過去、そして延長上の現在をも否定することになるだろう。「自立した」生活が難しい人と接して、彼らを決定的に怒らせたりするときは、図らずも彼らの過去を踏みにじってしまった時なのだろうと、反省することも多い。

私たちに出来るのは振り回されながら、関り続けることなのだろう。

実際一筋縄でいかないそんな人たちの継続的な関りを保障するものやシステムのビジョンをつくり、実現していかなくてはならない。今後も相談件数はもっと増える。アパート入居した人も年をとる。ボケる人・障害をもつ人も増えてくる。

福祉相談事業はいろんな人や団体との協力で「福祉自立」への途をならすことが出来たと一定評価できるが、先にも述べたように、持っているものが少ないNPOにはまだまだやらなければならないことがたくさんあるのだろう。

基本的に出来ることは、既存の福祉・医療のシステムに乗っけることが中心である。現状では社会的入院・施設入所を勧めざるを得ない例もあるし、この先もっと難しい事例が出てくるだろう。その時に、彼らに入院させるしか手立てがないというのは、辛い話だ。

当事者である野宿者の望みは、この町でこれからも暮らしていくことだろう。大方がこの町で人生の半分以上を生きてきた人だ。そうなれば既存のシステムに乗っけるだけでなく、この地域で・在宅でという福祉・医療の受け皿を早急に用意しなければならない。

形としてはデイケア施設とグループホーム的なものだろうか。

仕事を失って仲間との繋がりの契機を見失った人も、仲間が集る溜まり場があるだけで、酒に溺れずに済むかもしれない。一人では生活を維持していくのが難しい人も、そうしたところでなら、なんとかやっていけるかもしれない。やはり複数の人が出入りする場であるから何らかのルールや倫理が求められるだろうが、従来の施設・病院よりは、個々の生活史と現在が認められる場所となるだろう。

グループホームに関しては釜ヶ崎の中でもすでに他の団体や福祉アパートでもその試みに取り組み始めたところもある。そう遠くない未来にNPOが独自で持てるよう、私、目下勉強中である。ごめんなさい、具体的なビジョン提示できなくて。


体の調子が悪くても病院に行くのがおっくうになってそのまま病気を放置してしまう方、さみしさを紛らすためにさらに酒に耽溺してしまう方。痴呆が進んでしまう方・・・。

 これまでも十分に福祉自立後のサポートが出来てきたとはいえませんが、NPOの紹介でアパート入居し「福祉自立」を果たした人が130人を超えた今、スタッフの数が足りません。また入院中の方・施設入所中の方のもとへも、もっと足しげく面会に行きたいと考えています。

茶飲み話の付き合い程度でもかまいません。そういった話し相手こそが本人さんにとって何より必要とされているのです。また、それだけでは物足りないという方には病院やその他買い物や役所の手続きの付き添いなど、「訪問」にとどまらない、先々までの関わりを持っていただければと考えています。ぜひともご協力をお願いします。

(NPO釜ヶ崎事務局スタッフ・ホンマ アキラ