[an error occurred while processing this directive] 逸翁の愛した六甲山
ロゴ (1) 逸翁の愛した六甲山
六甲山をこよなく愛した 逸 翁 − 小林一三氏。
その氏が、持ち前のアイデアを活かして、戦後の六甲山をどう復興しようとしたかをまとめました。
小林一三氏を詳しくご存知ない方のために年譜も紹介しましょう。

戦後の六甲山の復興に重要な役割を果たすのが、阪急・東宝グループの創業者である
逸 翁 こと 小林 一三 氏
です。
氏は、六甲山を愛し、戦後の六甲山の復興をプロモートしました。
渾身是知恵の男と言われたその才能を復興事業に傾けたのです。

現在、六甲山の麓、阪神地域では、大震災の後の復旧を、むしろ復興であると考えようというビジョンの基に、各所で再開発が行われています。
丁度、これと同じようなことが、戦後の六甲山でも考えられたのですが、そこに小林一三氏のビジョンが大きなウエイトを占めたわけです。
もし、氏が健在でしたら、震災の復興に関して、どのようにされていたでしょうね。

平成不況の打開に、小林一三氏のようなオピニオンリーダーの再来が望まれ、今、氏が脚光を浴びています。
六甲山のことは、氏の業績のほんの一部です。
しかし、一部であっても、その様子を振り返ることで、今の私たちは何らかのヒントが得られるかも知れません。

小林一三氏

小林一三氏 (拙作)

あまり似ていないので他のサイト
例えば 阪急百貨店
写真をご覧ください

以下で (1) 等は文献番号を表し、クリックするとリストを参照できます。

1. 六甲山は泣いてゐた
小林一三氏は、戦前・戦後にかけて毎年のように、避暑のため、六甲山ホテルに 40〜50日逗留しました。
戦後は、公職追放の解けた昭和 27年から毎夏、六甲山ホテルで過ごしています。
公職追放については年譜をご覧ください。

氏の遺した「小林一三日記」(1)には、久しぶりに訪れた六甲山ホテルの様子が書かれています。
この中で、氏は 愛する六甲山を「何とか」しよう と表明しています。
以下にその部分を引用しましょう。
太字による強調は私が追加しました。

昭和26年のホテル
(当時の六甲山ホテル)
昭和26年撮影

昭和27年

7/23 晴

...

旅行の荷物を整理して午後二時出発、敦子同道自動車にて有馬道から登山、丁度二時間にて着。
六甲山ホテルに泊る、能く修繕ができてゐるのに感心した。
お客様は今夜は他に一人ある丈にて淋しい、涼味満点也。

六甲山ホテルは独逸捕虜収容所として占領され、そして乱暴に破壊されてあつたが、二十三年漸く返して貰つたけれど、敗戦後山上の乱脈、白昼泥棒が横行する始末にて各別荘も空家同様にて辛うじて留守番を置く程度に維持されて居つたとの事。
戦時中にロープウエーは徴用撤去され発着所の跡片付も未だに片付かず荒廃のまゝ放置されて、月見橋も破壊のまゝ実に古戦場を見るが如き悽愴の感あり。
これを、もとの通りに、戦前の繁昌にするのには何年かゝることであらうと感慨無量也。
然し六甲山は京阪神間に於ける文化的公園としてどうしても大成すべき必要があると信ずるから、復興と同時に、その新しい建設案を研究すべしである。
私は八月一杯はこゝに静養するつもりであるから、何とか立案して見たいと思ふ。

...

阪急電車のテラス食堂も修繕が出来て七月から開業してゐるのも漸く常時に帰つて結構だと感謝する。

ここにあるように、戦後ドイツ人収容所になっていた六甲山ホテルは 23年 阪急に返還されたのですが、それからしばらくは、祖父がホテルの管理・修繕に当たりました。
26年からは夏だけホテル業を再開します。

戦後の六甲山の復興事業としては、22年頃に新池遊園地、23年5月に平和観音像ができたのを始め、24年4月に六甲山小学校(分教場)が開校しましたが、本格的な復興はまだまだで、山上施設は荒れるにまかされており、小林一三氏がその状況をみて嘆いたのも、もっともなところでした。

さて、この状況を何とかしようと、氏は持ち前のアイデアを発揮して、六甲山復興キャンペーンに撃って出ます。

その最初が、県への 「六甲山は泣いてゐる」「六甲山は喜んでゐる」 という 2つの上申書の提出
この文は朝日新聞を通じて全国に紹介されました。

以下に「六甲山は泣いてゐる」の一部を引用しましょう。
8月7日付の朝日新聞の5面を、広告を除いて一面丸々割いた特集記事 眠れる六甲開眼≠ヨ の中に掲載されたものです。
新聞なので現代仮名づかいになっています。
太字による強調は私が追加しました。

六甲山は泣いている
小林一三
十何年ぶりに六甲山ホテルに投宿して、涙の出るほど荒廃している山上の風景に接し、私はいま感慨無量である。

何というなさけない風景 !
「神戸市六甲山公園」 という名称を冠することによって、痛ましい、古戦場のような懐古的詩想にふけらざるを得ないほど、現代ばなれのしたなさけない光景の中に、私はいま茫然として佇立するのである。

...

眼下の市街地や、遠く紀州の山岳などの眺望のために出来ておった道路添いの茶店や飲食店は、いつ破壊されたのか、跡形もない。
そして、この山上の中心を示していた記念碑ももち運ばれて昔をしのぶよすがもない。
...
登山者の大多数はこの記念碑を見当に行楽の休憩所として集まるのであった。
この高地に立って限界四周、東西南北の高壮なる風景をほしいまゝにするのである。
西北は雲海の如き但馬の連岳、東南は開けて大海原の空につゞく、まさに六甲山公園として天下に誇るに足る。
数万坪に近い丘陵と平地の中心には鉄筋コンクリートの休憩所や納涼台が、あらゆる金属質の材料を盗奪されて、荒れ果てている。
そして山上でたった一つの便所も閉されている。
これが神戸市長と兵庫県知事の所管するところの大公園である。
彼が宣伝しつゝある国立公園の真景である。
かつてこゝには絶えず数千の善男善女が集り来り、月見橋を渡って数十段の階段をクツ音高く勇ましく競うて登り来る子供たちを思い浮べる時、神戸市に編入した原口市長の無情と冷淡さを訴えざるを得ないのである。

...

という具合で、県・市に対して手厳しいものとなっています。

さらにこの記事の発表の後、氏は六甲山開発施設の方針についての 2回の座談会を持ちました。
座談会の内 1回は 「日記」(1) によると、9/26 13:00〜六甲山ホテルにて、岸田兵庫県知事・原口神戸市長他、観光課関係の役人が参加して行われました。

六甲山の復興を強力に呼びかけたのです。

これを、27年のホテル滞在中(7/23〜9/4)にこなしてしまうのですから、ひとたび思い立ったらのエネルギーは、さすがです。
このとき、小林一三氏は 79才。
もちろん、ホテル滞在中は、六甲山のことばかり考えていたのではなく、登山してくる来訪者に毎日のように応対、さらには下山しては、阪急や宝塚、復興間もない東宝についての仕事をこなしているのですから、超人的です。
この様子は、小林一三日記を読めばつぶさに分かります。

この年の主だった動きとしては、ここまでですが、日記による氏自身の評価によれば、

昭和27年

9/26 晴

...
六甲山は此夏ホテルに滞在中執筆した「六甲山は泣いてゐる」「六甲山は喜んでゐる」二編の記事を発表した其影響によつて、いよいよ具体化される光明を見るに到つたことは嬉しいことである。
...

となっていますから、ひとまずは県や市がその気になってくれたので満足されたのでしょうが、もちろんこれで終わりでなく、六甲山に関する具体的な取り組みはその後実行に移され、昭和32年 亡くなるまで続いていきます

いえ、それ以降も、祖父が遺志を継ぐ形で、営々と続いていったと言って差し支えないでしょう。


2. 最も有望なる山
小林一三氏が、このように六甲山にこだわったのは、阪急としては、戦前から阪神と開発にしのぎを削ってきた意地があるとか、ましてお金持ちの老人の道楽なんかではありません。
そこには、小林一三−阪急が常に実践してきている経営理念が働いています。

そもそも阪急は、大阪と宝塚・箕面を結ぶ、箕面有馬(みのおありま)電気軌道株式会社 (箕面電軌)がスタートでした。
この路線は、大阪〜神戸を結んでいた阪神と違い、本当に田畑・山林の中を走るイナカ電車でした。
小林一三氏は、この電車を始めるに当たって「最も有望なる電車」というパンフレットを作成し、自己の会社の PR を行いました。
当時としては、そうやって PR すること自体、一種の山師的行動に見られました。
さらには「如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか」というパンフレットを作成していますが、その中では、沿線の土地を同時に開発し、ベッドタウンを作る構想が語られています。
「模範的郊外生活、池田新市街」というものです。

模範的郊外生活とは、箕面電軌のキャッチフレーズですが、これは、沿線に人を呼び込もうという単純な発想ではなく、電車を中心に人との共生・共栄をはかっていこうとする、氏の鉄道事業に対する理念を端的に表している言葉です。

箕電

(創業当時の箕電)
駅は主要なもののみ

実現はしませんでしたが、
最終的には社名の通り、
有馬までの路線計画でした。
宝塚は中間点だったのです。

阪急百貨店創設当初に作られた「阪急百貨店店員心得書」の最後に「五戒」というものがあり、その最初が、
一.吾々の享(う)くる幸福は御来客の賜(たまもの)なり
となっていますが、この言葉が表す「幸福」を得るために、氏は、御来客に対して如何にサービスするかを考え、アイデアマンとしての能力を最大限傾注したのでした。
このような発想で、氏が興した事業には、阪急不動産宝塚歌劇、全国初のターミナルデパート阪急百貨店東宝高校野球 (今は阪神甲子園球場で行われていますが、そもそもは阪急が豊中球場で始めたのです) など、枚挙にいとまがないとは、まさにこのことです。
これら、氏がとりくんだ事業は、あくまで 大衆のため であるという考えが貫かれているのです。
最近でこそ、共生・アメニティ・メセナを謳った企業は多くありますが、昭和の初期のモダニズムを形成したこれらの発想を、どんどん具現化していった氏の業績は目を見張るばかりなのです。

さて、六甲山は、氏のこのような経営理念からするとどういう位置付けになるのでしょう。
以下のことがポイントであると考えられます。

(1) 六甲山は沿線住民のリゾート地としてあるべきである
沿線住民の背山として常に目に触れ親しまれてきた山である。
それほど標高が高くなく、都会からすぐに山上に到達することができるが、変化に富んだ山容であり、下界とは涼味満点の別世界を楽しむことができる。
阪急 (と現在は関連会社の神戸電鉄) は、ちょうど六甲山を取り囲む形に走っているため、沿線の開発が自然に六甲山に寄っていくことになり、山は一層近くなっていく。
阪急と神戸電鉄は昭和36年に業務提携。

そのため...

山上の各種レジャー施設と、山上への交通インフラを整備しなければならない。

ただし、それらの開発は、名だたる 六甲山公園 として 洗練されたものでなければならない。

位置関係

(当時の鉄道路線と六甲山の位置関係)

(2) 山上は住宅地と考えるべきである
山上は一部階級の別荘地としてより、今後はむしろ住宅地であると考えるべきである。

そのため...

山上の道路、水道、電気、医療施設など、住環境(ライフライン)を整える必要がある。

このことについて氏は、当時の野村証券社長の奥村綱雄氏との対談の中で次のように述べています (「小林一三全集」第 7巻(2) 対談 より引用)。
「日記」(1) によると、対談は 8/19に六甲山ホテルで行われています

...
いちばん必要な表ドライヴウェーというのはすっかりつぶれておって、かれこれ二十年も前、三回くらい修理してできたのですけれども、それがもうすっかりつぶれてしまったから、どうなるかわからないでしょうね。こうさびれてしまって...

今幸いにここは、幸いか、幸いでないかしりませんが、神戸市になったのです。そうして中心地点は六甲山公園という、元兵庫県のものでしょう。あるいはこんど市になるか、とにかくそういう中心があって、そうして立派なケーブルカーがありますからね。阪神間のほんとうのレクリエーションにしては、このくらいいいところは少ないのですよ。今まで六甲は二百何十人の宏壮なる別荘地区として、別荘人のためにいろいろ工夫して来たのですが、結局それは必要ですけれども、その前にやらなければならんことは、やはり阪神間の市民のための...

大衆のためのレクリエーションにいいのですよ。そういう方針でゆけば大した金もかからなくてやっていけるのですがね。私はそれをやり、その次にはここへ住んでいる人の立派な住宅地にしたらいいということを考えているのですがね。というのは、神戸市になって、春夏秋、立派に住めるところですから...。ここを単に別荘と考えなくて、ちょうど山の上の住宅地ということがいいか悪いか知りませんが、水もありますしね。ですから、私はここをどういうふうな住宅地にしたらいいだろうか、それを今いろいろ若い者と一緒に研究しているのですがね。
...

さらに「六甲山は泣いてゐる」の中では、
前掲の続きです(一部略)。

私は今やあまり老人であり、論議する勇気がない。
たゞそゞろに過去を追憶して、その言うところ愚痴に終わるを恥ず。
それは大正時代の中頃であった。
阪神急行電鉄敷設の工事中であったと記憶する。
...
私は六甲山施設の夢を画いたのである。
ロープウエーの開通、六甲山ホテルと阪急食堂の創設、それから昭和十二、十三年ごろまでに漸次充実しつゝ運んだその計画が、戦争時代に立入って、あと戻りして現状に陥ったというのは、──実はその失敗をつくろう口実であって、私は今、廃虚の中心に立って、再びその失敗を操返してはイケナイと叫ぶのである。

失敗の原因はいろいろある。
私はそれを言うに忍びない。
老人は過去を語ると評されるはシャクだ。
私は一足飛びに未来を語るであろう。
もし六甲山公園は、だれのために必要であるか、何が故に必要であるかということから、こゝに大方針をきめるとせば、ことはすこぶる簡単である。
その建設費用もすこぶる少額ですむ。
それは二百有余(その半分は不在)の別荘階級の人たちの為めの経営であってはならない。
国民多数のレクリエーションとしての、行楽地としてのあらゆる施設と交通を完備すればよいのである。
そしてそれを守護することである。

しかしそこに忘れてはならぬのは大公園としての限界である。
しかもやがては国立公園として、観光地として、その美観にそむかざる方針の厳守である。
大衆本位といっても俗化と醜状をどの程度に食止めるべきかということも考える必要がある。
それを断行すると同時に、私たちは知事、市長、阪神、京阪神両電鉄の四者の共同研究によって、六甲山の新しい計画を樹立し、速かに建設すべき具体案を作成しなければならぬ。
然らざればまた再び失敗を繰返し、サイの河原に石を積む愚挙に終るであろうと断定するのである。

とも書かれています。
阪急という一企業を越え、官民一体で六甲山に取り組むことが必要であるとの主張なのです。

以上の様々な構想を具体化するために、別項で紹介している、表六甲ドライブウェー の再建があり、集約点として、祖父が任された、六甲山経営株式会社 が生まれたのです。


3. 小林一三氏の年譜
小林一三氏の理念を理解するための助けにしてもらうべく、年譜を掲げます。
より詳細については、参考文献に挙げた書物に当たられることをおすすめします。

年齢 事 績 世の中のできごと
明治 6年(1873)出生 1月3日 山梨県北巨摩郡韮崎町に生まれる。
生まれ月日より一三と命名される。
生家は酒造業・絹問屋を営む富商であった。
母は生後 8ヶ月で死去、養子であった父は離縁して小林家を去ることになり、大叔父に育てられる。
一三は実の親の愛を受けていない。
1873 地租改正
8年(1875) 2 祖父の立てた別家の家督を相続。 1877 西南戦争起こる
1883 鹿鳴館完成
21年(1888)15 2月 慶應義塾に入学。
寮誌「寮窓の灯」の主筆となる。
小説家を志す。
明治23年、17才のとき、本物の殺人事件を題材にした小説「練絲痕」を「山梨日日新聞」に連載するが、内容があまりに事件に立ち入っていたため、警察の取り調べを受けることになり、執筆中断。
1889 大日本帝国憲法公布
1890 第1回帝国議会召集
25年(1892)19 12月 慶應義塾を卒業。 .
26年(1893)20 4月 三井銀行(現 さくら銀行)入社。
9月 大阪支店に勤務。
自ら切望して、大阪配属になる。
月給 20円の他に、実家から年間 100円の仕送りをうけ、芝居見物、お茶屋遊びを繰り返す。
この経験が、後に彼をして、宝塚歌劇という大衆演芸を生み出させる素地になった。
1894 日英改正通商航海条約締結
1894 日清戦争
28年(1895)22 9月 岩下清周氏、大阪支店長として赴任。
この岩下氏との出会いが運命を大きく変えていくことになる。
1895 下関条約締結・三国干渉
30年(1897)24 1月 名古屋支店に勤務。 .
32年(1899)26 8月 大阪支店に勤務。 .
33年(1900)27 10月 結婚。
回りから早く身を固めるよう忠告され、見合い結婚するも、すぐ離縁して、前の大阪勤務時代からの恋人と結婚する。
この女性が、彼の生涯の伴侶、こう夫人である。
.
34年(1901)28 1月 単身上京。
三井銀行が深川支店に属していた箱崎倉庫を独立させ、倉庫部(後の三井倉庫)とする計画があり、前年の末に一三はその主任に栄転の内示を受けていたが、その辞令は一夜にして改変され、次席となる。
失意の下働きで、一年余りを過ごす。
1901 八幡製鉄所開業
1901 足尾鉱毒事件
35年(1902)29 本店調査係検査主任になる。
一三にとっては「耐えがたき憂鬱の」(仕事が面白くない)時代であった。
全国の支店を監査のため巡回。
旅先での書画・骨董の収集が始まり、生涯かけてのコレクションは膨大な量に及ぶことになる。
現在は逸翁美術館で所蔵・展示されている。
1902 日英同盟協約調印
1904 日露戦争
40年(1907)34 1月 三井銀行を退職。
岩下氏が証券会社を興すに当たって、その支配人となるよう懇望され、退社。
しかし、折りしも日露戦争後の好景気の反動による株の暴落が始まり、構想は頓挫。
一三は妻と三人の子供かかえ浪人となる。
4月 阪鶴鉄道監査役となる。
明治29年に営業を開始した阪鶴鉄道は、明治39年公布の鉄道国有法により、国有化の対象となった (今の JR福知山線になる)。
そこで同社は解散する一方、以前に取得していた大阪−池田間の鉄道敷設の免許を基礎に、箕面有馬電気軌道株式会社を創立しようとしていた。
阪鶴鉄道は、三井物産が大株主となっており、物産から入った取締役の飯田氏が、岩下氏のとりなしで、彼を拾った形になった。
一三は、阪鶴鉄道の清算事務をつとめる。
6月 箕面有馬電気軌道株式会社(箕面電軌)創立の追加発起人となる。
戦争景気のころは、将来有望とされ新株募集にプレミアムまでついた鉄道事業であったが、反動不況により、出資金はなかなか集まらない。
おまけに、箕面電軌は沿線人口の少ない、イナカ電車。
発行 11万株の内、5万4千株余りが引受未了状態で、設立が危ぶまれた。
一三は、沿線を調査の上、宅地開発を同時に進めることで採算が取れると踏み、岩下氏に談判するが、「一生の仕事として責任を持ってやるのなら」と言われ、事業家としての道を決意する。
一三は、全権を任せてもらうとの契約書とともに、事業が成り立たなかった場合投資金は元より一切の責任を取るとの証文を書いて(書かされて)、発起人に追加してもらう。
以後、箕面電軌の創立事務は、一三が一切を取り仕切った。
10月 箕面有馬電気軌道株式会社の創立総会を開催、専務取締役に就任。
そして、ついに設立。
社長の椅子は岩下氏が座るまで、まる一年空席のままとなる。
.
41年(1908)35 10月 宣伝パンフレット「最も有望なる電車」発行。 .
42年(1909)36 秋 パンフレット「如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか」発行。
パンフレットでは「美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都にすむ不幸なる我が大阪市民諸君よ!」と都会に住む人々に郊外での生活を呼びかけた。
「大阪市民諸君! 往け、北摂風光絶佳の地、往て而して卿等の天與の壽と家庭の和樂を完うせん哉。」という、一三らしいちょっと気取った文章でもって田園都市の基本方針を訴えたのである。
そして、その構想を次々と具現化していった。
明治43年6月に売り出した池田室町 200屋敷は、2階建て 5〜6室、20〜30坪で、2,500円、頭金 2割の 10ヶ年賦。
今日の分譲住宅の先駈けである。
もちろん電鉄会社が住宅を売り出すのは前代未聞のこと。
池田の住宅は、すぐに完売したので、順次豊中・桜井と拡大。
阪急沿線は「(一三曰くの)理想の住宅地」となっていく。
.
43年(1910)37 3月 宝塚線・箕面支線営業開始。
同時期に、京阪電車、神戸市電、兵庫電車の建設、南海の電化が進められていたが、箕面電軌が(「最も有望〜」での) 予定より 21日も早く開業にこぎつけ、この中では一番乗りとなった。

ところが、梅田−野江間の認可取得の際(結局この線は実現しない)、親友の松永安左エ門氏の大阪市議へのコネを利用するが、このことが、未公開株の譲渡疑惑に発展し、一三と松永は、開業の直前取り調べを受ける。
2人は不起訴で済んだが...

1910 韓国併合
44年(1911)38 5月 宝塚新温泉の営業開始。
新たな乗客誘致対策としてのレジャー施設がこれである。
大理石の浴槽に冷泉の沸かし湯を満たした大浴場をメインとした施設は、今のヘルスセンターや健康ランドのようであったが、至極ハイカラな作りで、大阪からの日帰り客で賑わった。
その後プールを中心とした「パラダイス」を併設するが、時勢に早すぎて、振るわなかった。
1911 各国と通商航海条約を調印し、関税自主権を回復
大正 2年(1913)40 7月 宝塚唱歌隊を組織する。
「パラダイス」の失敗に、プールではイベントスペースとして博覧会などが行われたが、それらはあくまで期間興行にすぎない。
そこで一三は、抜本的対策として、少女オペラを発案。
プールを劇場に改造して、大正3年4月から講演を始めた(ただし、婚礼博覧会の余興)。
しかし、この唱歌隊が後に少女歌劇から歌劇団(世界のTAKARAZUKA)になる。
1914 第一次世界大戦勃発
7年(1918)45 2月 阪神急行電鉄株式会社と社名変更。
大正3年大阪日日新聞により、北浜銀行の頭取でもあった岩下氏攻撃の記事が掲載され、岩下氏は頭取を辞任、ついには北浜銀行も支払い停止に追い込まれる事態となった。
世に言う「北浜銀行事件」である。

箕面電軌の社長も平賀氏に交代。
メインバンクを失った箕面電軌は、苦難の連続となる。
箕面電軌では期待の神戸線の敷設を、特許を持っていた灘循環電車との連絡により行おうと考えていたが、その灘電の持ち株を北浜銀行が売却することになって、話が宙に浮いてしまった。
その上、阪神電車がその株を買収しようとしたため、両社の抗争に発展したのである。
しかしこれは、かけひきの末、阪急が灘電株を買収し、またその後の阪神との特許線に関する係争にも勝って、神戸線敷設のメドが立つことになる。
この時期のことについては、小西酒造(白雪)のページで詳しく述べられています。
また、経営も、第一次大戦の好景気により何とか持ち直し、箕面電軌を阪神急行電鉄株式会社と社名変更して、一三は精神的にも岩下氏から一人立ちすることになった。
略称 阪急はこのときから。

1918 米騒動起こる
9年(1920)47 7月 神戸線本線・伊丹支線開通。
このときの新聞広告のコピー「新しく開通(でき)た大阪ゆき急行電車 奇麗で、早ようて、ガラアキで、眺めの素的に涼しい電車」は、今も語り草になっている。

このころから一三は、東急電鉄の前身である、目黒蒲田電鉄の母体であった、田園都市会社の重役会に出席し、アドバイザーを務めることとなる。
田園都市会社では、一三のアドバイスにしたがって、土地の分譲を行った。
今の田園調布一帯もこのころからのものである。
この功績により、小林一三の名前は、東京の財界でも知られることとなる。

1920 国際連盟発足
1923 関東大震災
13年(1924)51 7月 宝塚大劇場が竣工。
宝塚は、前年の出火で、浴場以外全てが灰になってしまった。
たが、ころんでもただでは起きない一三は、理想の大劇場(観覧席 3層、400人収容)を完成させる。
これだけの劇場を作っても、一三は観劇を低料金に押さえた(現在でも、S席で \7,500である)。
むしろ、劇場を大きくしたのは、観客一人あたりの単価を下げるのが目的だったのだ。
あくまで、沿線住民−大衆が気軽に楽しめるもの「明るく、心持ちよく朗らかなる娯楽機関」を目指したのである。
.
14年(1925)52 6月 梅田の阪急ビルに直営のマーケットを開業。
後の阪急百貨店(昭和4年から)の始まりである。
こういう駅前の直営マーケットは全国初。
当時、老舗の百貨店は旧市街地の中心にあり、駅から送迎のハイヤーや人力車を出して人を迎え入れていたが、その経費は当然商品の値段にはね返っていた。
それを駅前にすれば、すぐに買い物ができる上に、経費の無駄を押さえて、安くモノを提供できるわけである。

しかし、そういう一石二鳥のアイデアも、一三は、慎重にデータを集めてから行動に移している。
最初は、駅ビルを白木屋に貸して実験的にやらせ(大正9〜14年)、実績から「これはいける」との確信を得た上で、直営マーケットを開始した。
さらに来客のニーズを徹底的に調査した上で(準備委員長を米国へ派遣したりした)、斬新・多角的な戦略的経営が行われたのである。
そのユニークなところは、例えば、阪急百貨店になってからであるが、7・8階に食堂を設け、20銭でライスカレーを販売したり(米の炊き具合まで徹底した調査が行われ、大ヒットとなる)、古美術の正札販売、履き物を脱がなくて良い呉服売場、薬局・健康相談所、果ては結婚相談所・郵便局までも百貨店に組み入れられたのである。

ここでもうひとつ。
阪急百貨店の、いかにも一三らしい広告をご紹介します(昭和7年)。

阪急百貨店の大方針
「どこよりも良い品を どこよりも安く売る」
なぜ、それができるか。経費がかゝらないからである。

広告費が少なくてすむから
現金売を主としているから
外売をしないから
遠方配達の経費も省けるから
阪急の副業であるから
家賃がいらないから
1925 治安維持法公布
1925 ラジオ放送開始
昭和 2年(1927)54 3月 阪急電鉄取締役社長に就任。
7月 東京電燈株式会社取締役に就任。
このころ東京の電力業界では、東京電燈と東京電力が覇権を争っていた。
しかし、関東大震災の損害と東京電力の猛攻で、先発の東京電燈の業績は悪化していたのである。
その建て直しに白羽の矢を立てられたのが一三。
これは、当の東京電力のボスが、一三の親友の松永安左エ門氏であったことが一因である。
結局、各方面からの説得の末、一三は、乗り気ではなかったものの、引き受けることになるが、これが後に、電力を始め、国家経済を統制下に置こうとする軍部の圧力に敢然と立ち向かう、小林商工大臣につながっていく。
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3年(1928)55 3月 東京電燈副社長に就任。
4月 目黒蒲田・東京横浜両電鉄の取締役に就任。
10月 昭和肥料株式会社を創立し、監査役に就任。
昭和肥料は東京電燈が、余剰電力の消化のため設立したものである(後の昭和電工)。
1929 世界恐慌
1931 満州事変起こる
7年(1932)59 8月 株式会社東京宝塚劇場を創立し、取締役社長に就任。
東京宝塚を、単に、宝塚劇場の東京出店と見てはいけない。
一三−宝塚の大衆本意の方式が、東京に持ち込まれたこと自体が、非常にセンセーショナルなできごとだったのだ。
それは、切符を誰でもいつでも買えるようにしたこと(当時は「連中」という贔屓でなければできなかった)、料金を低く押さえたこと、客席の優劣をなくしたことであり、松竹が独占し花柳界と直結していた時代には、考えられなかったことなのである。
東京宝塚が詰まって、東宝
やがて、東宝劇場、東宝映画のネットワークが全国に展開されていくのである。
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8年(1933)60 11月 東京電燈株式会社社長に就任。 1933 国際連盟脱退
9年(1934)61 1月 東京宝塚劇場竣工。
1月 阪急電鉄社長を辞任し、会長に就任。
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10年(1935)62 9月 欧米視察。
阪急では会長になり、東京電燈も社長として 2年、軌道に乗せた。
そろそろ引退を考え始めた一三は、ソ連の経済計画がどんなものか見たくて、62才にして初めて渡航に出たのである。
3ヶ月にわたり、米国から欧州、ソ連を視察することとなる。
さて、渡航経験を本に著し人生の締めくくりとして、後は余生を楽しもうとしていたのだが...
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11年(1936)63 10月 阪急電鉄会長を辞任。
12月 東京電燈の会長を兼任。
二・二六事件の後、国家統制の気運が高まり、電力業界も逓信省が国営化を発表した。
東京電燈を含め、電力業界はこれに猛反発。
一三も抗議の意味で「次に来るもの」を出版。
これがベストセラーとなり、一三は、国営化反対論者の雄に。
引退などと言ってはいられない状況になってしまった。
1936 二・二六事件勃発
12年(1937)64 9月 東宝映画株式会社を創立。 1937 日中戦争起こる
1938 阪神大水害
14年(1939)66 3月 株式会社三越取締役に就任。
3月 日本軽金属株式会社を設立、社長に就任。
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15年(1940)67 3月 東京電燈の社長兼務を辞任。
3月 経済使節としてイタリアへ。
この間に、イタリアは参戦。
緊急帰国するが、待っていたのは、商工大臣の椅子であった。
7月 第2次近衛内閣の商工大臣に就任。
商工大臣の椅子にゆったり座る一三ではない。
実業家らしく、思い付いたアイデアを実現させようと働きかけるが、それが官僚との軋轢を生む。
8月 経済使節として蘭領印度(現インドネシア)へ。
米国の石油輸出制限のため、代わりの資源供給元として蘭領印度を考えた。
その交渉が一三の任務。
ところが、交渉のさ中、三国同盟が締結。
満足な結果が得られないまま帰国することになる。
1940 日独伊三国同盟締結
16年(1941)68
帰国後、国家統制はますます強化されつつあった。
一三は、これに猛反対。
当時の事務次官 岸信介氏(後の総理大臣)を辞任に追いやることになる。
4月 商工大臣を辞任。
しかし、結局一三本人も辞任することに。
本人の評価では「官僚軍閥の独善的統制主義へ、有効な一矢を報い得た」ということではある。
この後、世は、国家経済統制の道をまっしぐらに突き進むこととなる。
1941 太平洋戦争起こる
17年(1942)69 3月 東京電燈解散。 .
20年(1945)72 10月 幣原内閣の国務大臣に就任。
11月 国務大臣兼戦災復興院総裁に就任。
こんどこそ、明るい理想の社会を築こうと取り組んだが...
1945 原爆投下
1945 ポツダム宣言を受諾し日本は無条件降伏
21年(1946)73 3月 公職を追放される。
4月 国務大臣兼戦災復興院総裁を辞任。
公職追放のため、志半ばにして辞任のやむなきに至った。
1946 天皇人間宣言
1946 日本国憲法公布
1947 教育基本法・学校教育法公布
23年(1948)75 10月 東宝争議妥結。
8月に起こった、東宝の従業員組合と経営側の対立は空前の規模になり、警官1,800名、進駐軍の戦車や戦闘機も出動する事態となった。
当然、東宝の経営は悪化していく。
日本劇場、帝国劇場、有楽座、日比谷映画劇場も差し押さえられた。
争議は妥結したものの、東宝はボロボロに。
1949 湯川秀樹ノーベル賞受賞
1950 朝鮮戦争起こる
26年(1951)78 8月 公職追放を解除される。
10月 東宝社長に就任。
一三の、東宝建て直しが始まる。
そして、何と26年下期には早くも黒字に転換。
さらに「七人の侍」「ゴジラ」「潮騒」などのヒットをとばし、黄金期を迎えるのである。
1951 サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約調印
27年(1952)79 10月 映画視察のためアメリカへ。
この旅に前後して、一三の興味はテレビジョンに向けられる。
NHKが翌年から本放送を開始した時期である。
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30年(1955)82 9月 東宝社長を辞任し相談役に。 .
31年(1956)83 2月 新宿コマ・スタジアム設立、社長に就任。
4月 梅田コマ・スタジアム設立、社長に就任。
1956 国際連合に加盟
32年(1957)84 1月25日 池田市の自邸において急性心臓喘息のため急逝。
遺志により、宝塚大劇場において宝塚音楽学校葬。
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